……いや、「ヤンデル先生の病気」の話ではなくて、ヤンデル先生の「病気の話」である。
https://www.shorinsha.co.jp/detail.php?bt=1&isbn=1208312119
上記リンクから、特集記事の序盤が試し読みできるのでお試しください。
企画書が届いたのが去年の8月、書き終わったのが去年の11月なので、書き終えてからまる1年が経過している。なので自分で読んでも新鮮な部分があった。よくできたと思う。それよりなにより、イラストレーターの熊野友紀子さんの世界観がめちゃくちゃいいので皆様にお勧めしておく。
今回の記事の内容は「病気ってそもそもなんなの?」という一本の太い骨、とその周りに肉付けされたもの、である。
「病気ってなんなの?」すなわち「病(やまい)の理(ことわり)」であり、これは病理学そのものだ。ぼくがこのブログでずっと書いてきた「病理の話」も同テーマで書いている。
書くのがすごい楽だった。なぜなら、最初から頭の中に風景があるので、その風景の中を歩いて見えたものを文章にしていけばそのまま原稿になるからだ。
なんでも、小説家の中にも、考えて書いているのではなくて、頭の中にできあがった世界を順番に描写していけばそれが小説になる、というタイプの人がいるという。
この話を聞いたときにふと思ったのは、
「ああ、つまりぼくの頭の中には、病理というナラティブがあるのだな」
ということだった。
ナラティブという言葉がずいぶんいろんな使い方をされるようになったが、この言葉はつまり「物語化する」ということだ。客観的に・論理的に組み上げた学問にも、実は客観的観測結果の時系列や、論理同士のつながりがあって、そこには一種の物語性がある。
ぼくの場合は自分の専門とする病理学にのみ、脳内でこの物語化ができている。だから病理学を語るときに、歴史とか、なれそめとか、あらすじとか、そういった語り方ができる。となると、導入部さえ編集者に決めてもらえれば、あとはストーリーをたどっていけばいつの間にか教科書の皮をかぶった随筆ができあがるのだ。これは助かる。
「なんだそりゃ、査読もされずに学問の話を書くなよ、論文を書けよ」
という反論が出るのはわかるのだが、医療情報発信はどちらかというと診察室を拡充する医業のひとつだと思っている。「外来に出てないで論文を書けよ」という人もいるので自分が免罪されるとは思わないが、たいていの人は、「そうか、病理医として外来に立とうと思ったら、本を書けばいいんだね」とわかっていただける。
外来で患者と話すこともナラティブ同士の突き合わせだろう?
だから患者向けに、あるいは医療者向けに本を書くときにもナラティブ・ベイストのやりかたはあると思うのだ。そしてそのナラティブというのは、「科学の持つ物語性」であるべきだ。
これから4冊本を出す。1冊は看護師・看護学生向けに書いた「病理の話」の教科書。1冊は中学生が読める文体で書いた「病気の話」の新書。1冊は消化管病理学のゆるめの専門書。1冊は肝臓の画像・病理対比の本。最初の2冊は単著、後半の2冊は共著(だがぼくが9割書いている)。
これらはすべて「病理の話」であり、ぼくの専門ど真ん中であっていずれも、脳の中にある風景をただ写し取っていけばいいだけだったので、原稿はたいそう楽だった。
なお、脳内遊覧を本にしていく作業は、これで一段落とする。
40歳前後でこれだけ本を書かせてくれたのは本当にありがたかった。しかしそろそろ後進に道を開くべきだろう。自分が専門とする領域について、日々の仕事の中で頭の中に組み上がった風景をライトな文体でまとめていくとき、大事なのは
「頭の中にきちんと何かを組み上げていること」
だ。つまりは自分の中にちゃんと学問を組み立てようとしていること。
でもこんなことはわりとみんなやっている。
ならばあとは、デスクに向かう時間さえあれば誰もがぼくと同じような仕事をできる。
もっとも、40歳前後の医療者というのはそもそもデスクに向かう時間が取れない。だからたいていの医者はそう簡単には本を出せない。脳内に科学があってもアウトプットする時間がない。
けれども今の時代、SNSによって、デスクに向かわずともスマホに向かえば小刻みに文章を残せるようになった。脳内風景を断片的に切り出して世に出す作業は、前よりもずっと簡単である。
となるとこれからは、ぼくより若く、活気があって、脳内にぼくとはまた少し違った風景を構築している人が、ライトな文体でどんどん本を書くだろう。それはたとえば腎臓の話でも子宮の話でも、甲状腺の話でも骨折の話でも、脳の話でも、なんでもありえる。
ぼくはもう十分にやらせてもらった。次はおじさんにしかできない、おじさん以外はやりたがらない、おじさんであればやっていても不思議はない仕事にシフトしていこう。
科学のナラティブをライトに語る切り口はぼくの持ち味のようだ。ここを純文学みたいに重厚にしていくのは、たぶん求められていない。けれども、ライトに書きながらも、読んだ人に何かを思ってもらうような文章というのも世の中にはある。
このとき求められるのは、ナラティブに詰め寄っていく解像度の高さと、今まではとにかく早く多く書いてきたものを、じっくり、少しずつ、丁寧に書き取っていこうという心がけなのではないか、というのを今は考えている。