2019年10月29日火曜日

自己紹介

寿司以外に手段を知らない。

ぼくは寿司以外に手段を知らない。

ぼくは寿司以外に見学に来た若い医者をほほえませる手段を知らない。



だから若手が職場を見学に来るときにはいつも困ってしまう。現代、「一緒に何かを食いに行こう」というだけでハラスメントになってしまう時代だ。「一緒に何かをハラスメント」。「一緒ハラスメント」。「一緒ハラ」。すなわちイチハラである。後輩に対して何かを食わせて満足させるという思考回路しかない場合、もはや上司としては不適格の烙印を押されざるを得ない。

それは、とてもすばらしいことだ、かもしれませんね、SAMURAI.




そういえばぼくは若い頃、大学院を出て今の病院にやってきたときに、外科医や内科医たちから「接待があるからついておいでよ」と誘われることがまれにあった。でも結局行かなかった。ぼくは薬を出す立場じゃないから、薬屋に接待される覚えがない。かたくなに断った。今にしておもえば、コンプライアンスもぐだぐだの時代だ、せっかくだから2,3回おごられればよかった。あそこでおごられたからといってぼくらの手が異常に汚れるわけもなかった。けどぼくは生真面目だった。美徳ではないだろう。他人との距離感をうまく測れなかったのだ。

つかずはなれずの関係を築いているうちに、とうとう誰もぼくのことは誘わなくなった。そうこうしているうちに時代が流れ、そもそも接待という制度自体が過去の遺物となり、研究会の打ち上げもすべて自腹が当たり前になって、ぼくはとても居心地がよくなったし、手に入るはずだった利得を手に入れないままここまで育ったことに誇りをもっているし、多少のさみしさも、なくはない。こういうことを書くと怒られるかな? でも「いいなあおごられるの……」くらい書いたところでバチはあたるまい。




さて、いざ後輩が現れる年になって、ぼくは困ってしまった。後輩というのはどのように接待申し上げればよいのか。接待がない世の中で接待をしようとたくらむ自分がこっけいだ。しょうがなく伝家の宝刀を抜く。

「ぼくもこうやってよく先輩におごってもらったから、キミもぼくに快くおごられてほしいし、偉くなったら後輩におごってやってほしい。」

けれどこの刀は使いづらいのであった。タダ飯だろうがなんだろうが、上司と同席してメシを食うこと自体にストレスを感じる人もいっぱいいるんだよな、ということが取り沙汰されるようになったからだ。




よく考えたらぼくは、接待されることがいやだったんじゃなくて、自分がとくに望んでいない誰かとメシを食うのが圧倒的にいやだったから、「薬屋さんに接待されるような身分ではないです」といういいわけを振りかざして断っていたのではなかったか。

きっとそうだ。ぼくは別にクリーンな人間だから接待を断っていたわけではなかった。

あのとき、もし、「お近づきの印に1000万円差し上げます、ご自由に使って下さい」と言われたらぼくの正義感は別に発動しなかったと思う。単に、仲がいいわけでもない薬屋と、仲がいいわけでもない他科の医者たちと飲むのがいやだっただけなのだ。




人は知らないうちに、本来の意図とは違うところで勝手にクリーンに生きていることがあるのだ。ぼくはこのことを、「接待」というクソ文化を巡る歴史の中で、学んだ。




それはそれとして困った。後輩にはどのように満足してもらえばいいのか? 答えは実は簡単なのである、ぼくが、黙って背中を見せるだけで後輩に尊敬されるような人間であればいい。メシはいらない。場所もいらない。ただ一途にはたらくすがたをみせればいい。一途にはたらけばいい。いちずはたら。いちはらである。