2019年10月10日木曜日

病理の話(373) 早期胃癌研究会あたふた顛末記その2

早期胃癌研究会の会場は、泉岳寺にある笹川記念講堂というところだ。

1階ロビーから、羽田空港なみに長いエスカレーターを上がっていく。威圧感のあるつくりをしている。吹き抜けには競艇の巨大ポスター。配色豊かなボートレース。渡辺直美の好感度の高さがすばらしい。渡辺直美の爪の垢を煎じて、庭の畑の土に混ぜてトマトを色鮮やかに育てたい。

たどりついた会には大量の受付おねえさんがならぶ。

いまどきおねえさんなんだな。古い。

参加費1000円を払う。サンドイッチか小さな巻き寿司を引き換えにもらえる。

バックには製薬会社と出版社がついている。しかしこいつら完全に赤字だと思う。

出版社のブースが申し訳程度にある。立ち寄ると見知った顔がいた。すこし痩せましたねと言ったら、だいぶ白髪増えましたねと返され……てません。創作です。そんな失礼なことは言ってないので大丈夫です。医学書院のウォーリーさんは礼儀正しい男です。上司の方ここを見て彼を飛ばす準備をはじめないでください。どうしても飛ばしたいならMさんのほうにしてください。

学会や研究会の発表を控えて緊張しているときに見知った顔に出会うと緊張がほぐれるという人が居る。ぼくはあれ、理解はできるのだが共感ができない。逆だからだ。知っている人がいればいるほど緊張する。他人には失敗を見せてもいいけれど知人には見せたくない、みたいな感情がぼくの中層付近に漂っている。中層で表層を支える粘膜筋板みたいな存在である。わからない人はわからなくていいです。



ゆるやかな斜面になったでかすぎる大講堂を、前の方に向かってトットッとかけおりていく。下におじいさんがいるときはハイジのまねをしよおう。そう、たいてい最前列にはおじいさんたちがいる。どれだけ早めに会場入りしてもたいてい待っている。歴戦の勇士達。消化管病理の大御所達だ。内視鏡医よりもベテラン病理医のほうが会にやってくる時間が平均的に早い。おじいちゃんだからだろう。ぼくは廃人じゃなかったハイジの顔で、明るく彼らの方に駆け下りていくことにする。途中で少しずつ身をかがめて絶対に見つからないように最終的には段ボールの中に隠れてそろそろと移動する。

最前列から3列ほど後ろ、左側に、いわゆる読影委員と呼ばれるコアメンバーたちが主に座る聖域があるのだが、症例を提示する全国のドクターたちもここにやってくる。

いた。

今回ぼくが病理担当する症例を提示する、臨床医が二人……。

とてもリラックスして談笑している。

余裕だなあ。

寄っていって声をかける。緊張してないみたいですね!

すると二人は何言ってんだこいつという目をしながらぼくに答える。

「だって……ぼくら写真出したらそれで終わりですからね。しゃべるのは、画像をみて考えを述べる読影委員の方々と、あと病理のあなたですし……」

……。確かに……。彼らは写真の選定と、研究会への症例応募という最もストレスのかかる仕事をすでに終えて、あとは会場で料理されるのを待つだけの存在であった。にしても、この症例がぼろくそにけなされる可能性もなくはないのに、たいした自信である。そしてその自信ももっともだ。実際いい症例だとぼくも思った。

まあそんなわけでぼくはこのとき緊張が200倍(中拡大)になった。もう1個倍率をあげて400倍になると、強拡大になる。わからない人はわからなくていいです。



ぼくらの発表は2番目だ。

まず、1番目。本州のはしっこにある病院からの症例提示がはじまる。




……美しい!




第一印象がそれだった。あまり普段聞かないような名前の(失礼)病院だが、内視鏡写真がとてもきれいだ。ポートレートや風景写真ではなく、大腸カメラの画像なわけで、ライティングとか絞りみたいなことは基本的にあまり操作できない。画角もあまり凝ってしまうとかえって見づらくなるからみんな似たようなものだ。

それでも画像が美しいと思える理由、それは、病変に対する迫り方・距離感が適切であり、事前に病変のある部分をきちんと生理食塩水で洗い流している丁寧さであり、非常に細かいピント調節を手間を惜しまずにやっていることであり……。

何より、ひとつひとつの画像が秘める「この意図でここを拡大観察しているから、ぜひ読み取ってくれ!」という、写真撮影者……主治医の心意気がきちんと伝わってくること。

つまりはメッセージ性がしっかりしている。

さすが早期胃癌研究会提示症例だ。にわかに緊張が高まる。ふと横の臨床医をみると、彼らは別にこんなの普通だよと顔をしながら画面を凝視していた。複雑な闘争心を思ってうれしい気持ちになる。




ステージに近いところで症例を見ているぼくの目に、はしっこに設置された大型のストップウォッチ的表示が目に入る。無情のカウントアップ。あれが30分をこえたときぼくはしぬんだ。そういう気持ちにさせられる。前回も書いたが時間厳守。自分の症例が極めて重要だからといって時間オーバーは許されない。なぜなら出てくる症例がぜんぶ重要だからである。

1例目の症例、いよいよ病理解説がはじまった。そつがない。問題ない。きちんとやりきったな。そう思った。発表者も安堵のため息をついたようにみえた(シルエットだけだが)。そこにすかさず飛び込んでくる刺客! 会場から剛力勇士たちが次々と襲いかかってくる! ひとりめは還暦近い有名病理医! ふたりめは喜寿近い超有名病理医! さんにんめは傘寿こえてんじゃねぇのもしかするとレジェンド超絶怒濤有名病理医! ただちに提示施設の病理医は粉微塵に……

ならなかった。

髪一重でふみとどまった。

感動する。涙が出る。鼻の方向に。だから鼻をかんだ。




さあぼくのばんである。長くなったのでその3(来週火曜日)に続く。