2019年10月21日月曜日

病理の話(376) 病態病理学e-learning敗北宣言

スタジオは秋葉原にあった。

なんていったっけあの橋……かつて、セガに教えてもらった橋。

そうだ、万世橋だ。

万世橋を曲がった先にあるあやしいビルが今日の目的地である。手前にあるローソンが肉の万世と癒合してしまっている。カツサンドを買ってほしそうな顔をしているローソンだったが普通のタマゴサンドイッチを買って、店の外にあるベンチで食ってみた。横には全身チャリンコレーサーみたいな男が無線機を抱え、ヘッドセットに向かって何やらまくしたてていた。やっぱりここは秋葉原の一角なんだな、と妙に腑に落ちる。万世橋の方向に向けてスマホをかまえ、インスタ用の写真を撮った。ここはモノクロフィルターしかないだろう。素人が撮るモノクロ写真、適度にこしゃくで最高だよな。

あやしいビルの入り口に重たい扉。一瞬オートロックのドアかと思ったが、ためしに思い切り引いてみたら普通にガチャっと大きめの音をたてて開いてしまった。全体的に古い。古民家系の古さではなく、遺跡系の古さ。朽ちた石のにおいがする。いちおうコンクリートづくりなのに。古代遺跡、洞窟、あるいは陸軍の古い施設といったたたずまい。いつ落下するかわからないエレベーターで上に上がる。無事上がれたことだけでもうめでたい。中層階でエレベーターのドアが開くと、そこはすなわち「インターネット放送用スタジオ」であった。さすが秋葉原、と思わずつぶやいてしまう。

ぼくはラジオ局に行ったことがないけれど、スタジオをぱっと見た印象は「これ、ラジオだ!」。

大量のコードが乱雑に置かれた棚。二重になったドア。収録スペースをのぞける大きな窓。でかい照明……そうか、ラジオと違って、ネット用スタジオは動画を撮るから、照明があるのか。

すでに待っていたのは日本看護協会の職員と、某看護系雑誌の編集部のスタッフであった。これから、e-learningの収録をする。e-learning、すなわち、インターネット講義だ。

ぼくは今日、看護師を対象としたe-learningの講師として、収録をする。





事前に用意したパワーポイントは、プロの雑誌編集者たちによって、めっちゃくちゃきれいに直されていた。フォントの配置がいい。色合いがやさしい。イラストがプロ仕様。デザイナー感覚の差をひしひしと感じる。やっぱ所詮ぼくは単なる医療者にすぎず、自分がわかりやすいと思って提示したプレゼンもプロの手にかかるとここまで直されてしまうんだな、と少し落ち込む。コーヒーを飲もうとしてこぼす。なにをやっているんだか。

視聴者の看護師たちは、金を払ってe-learningを申し込んで、少し上位の資格をとるための単位とする……らしい。よく知らない。ぼくはとにかくまじめに病理学を教えてくれればいいのだ、ということだった。言われたとおりにしよう。

ぼくの担当範囲は消化管である。全部で5コマもある。1コマがだいたい50分くらいの映像だろうか? 実際の収録時間はその何倍もかかるだろう、ということで、5コマとるためにまるまる2日間の予定を押さえられた。

咽頭、食道あたりはあまりぼくは詳しくない。なので、がっちり調べて、しっかり作り込んで、原稿もなるべく丁寧に。

胃は専門のど真ん中である。専門すぎるからなるべく平易になるように気を配ろう。

5コマ中2コマは「演習」というやつだ。問題をきちんと設定しておけば、さほど長くしゃべらなくていい。消化器がん患者を介護するにあたって注意すべき点を問うことにしよう。

そして大腸。これまで胃ほど綿密に研究してこなかったが、最近、ぼくの主戦場となりつつある……。





収録はおもいのほかうまくすすんだ。

「よくそこ、噛まずに言えますねえ」

「なめらかで聞き取りやすいです」

「申し分ありません」

はじめての収録だがおもしろいくらいにトラブルがない。

ぼくは若干気を良くしていた。「しゃべるの、むいてるのかも……」

咽頭・食道の項目。丁寧に。滑舌よく。はっきり、ゆっくりと。

特にダメ出しは出ない。

胃。作り込んだだけあって満足度が高い。同席しているスタッフたちも満足そうだ。

順調。2日間も用意してもらわなくてもよかったのではないか。



そして大腸編の収録。

ぼくは自分で興味がある大腸の講義に、これまでの収録で得た経験をプラスして、万全の状態で意気揚々と語った。

正直、手ごたえがあった! 収録が終わった! まわりをみまわす!



……全員が同じ方向に、15度だけ首をひねった。びっくりした。あれ?



「早かったですね」


「早かった」


なんてことだ、ぼくは、消化管の中でも今自分で一番興味があり、ひとりでも多くの人に正しい知識を伝えたいと思っている大腸の講義において、なぜか一番プレゼンがへただったのだ。じゃああの手ごたえはなんなんだよ。



そこで、その場にひとりいた、医療系のスタッフではない、ラジオ収録専門のスタッフが小さく、しかしはっきりした声で言った。



「でもこれは撮り直してはだめだと思います。今のは、一番勢いがあって、……なんというか、気持ちが入っていました。早口だったり、間が早かったりした部分は、編集で直します。だから今のを採用しましょう。」






なんてありがたいことを言ってくれるんだろうとうれしかった半面、ぼくはべっこりへこんでしまった。

そうか。ぼくは、自分が一番思い入れていることを話そうとすると、早口になって、とっつきづらくなって、UI(ユーザーインターフェース)が旧式になってしまうんだ。





万世橋の夕暮れはうすっぺらかった。ぼくはふらふらしながらローソンでご飯を買ってホテルに帰る。

……またサンドイッチを買ってしまっていた。何べんパン食うんだ。全国チェーンのパンを。