新連載をnoteではじめたのは「マガジン機能」があるからだ。
https://note.mu/dryandel/m/meab049957c2a
先日のイベントでちょっとぶりに会った編集犬は、即座に「フローとストック」と言った。経済学の例えだが、思考とか理念とか、情報を考える上でも使える考え方だろうと思う。SNS全盛時代には、何かをどこかで発言したときに、それがフローとして流れていくか、それともストックされるのか、という属性をあてはめることができる。
ツイッターでハッシュタグを使ってドッカンドッカン刹那的にもりあがるのはフロー(流れ去る)。
これに対し、書籍、あるいは文芸というものは、タッシリ・ナジェールの壁画からずっとそうなのだと思うのだが、痕跡として世に残り続けるストック(とどまる)としての側面がある。
インターネットがすべてフローで流れていくかというとどうもそうではない気もする。簡単な例でいうと、Wikipediaはいちおうストック型のサービスだ。ただ時流に応じてどんどん改変されていくし、30年くらい前の情報はぜんぜん手に入らないことも多いのだけれど……。
いっぽう、SNSはたいていフローとして捉えられている。たとえば医療情報の中でも比較的SNSでよく目にする、インフルエンザが今年も流行しはじめましたよーとか、風疹ワクチンのクーポンが今月末に更新されますよーみたいな情報は、フローだ。フローとして瞬間的に消費されることが前提である。
でもほとんどの医療情報は「いつか誰かの役に立つまでそこにある」という役割が求められる。つまりフローよりストック。医療情報はストック型のサービスにきちんとまとめられないと使い物にならない。ぼくはこれを、「博物館」になぞらえた。
博物館は静謐で、訪れる人はそこに知性があることを知って訪れ、見て楽しみ、自分の脳の栄養とする。
医療情報もこれといっしょだ。普段は博物的に分類され、陳列され、一覧できて、検索できるものであることが、のぞましい。ただし博物館といっしょで、特に自分が健康なときにはもっぱら脳の栄養とするために摂取する性質が強い。あるいは将来の不安を取り去るため? 家族や知人に知識を提供するため? そうだね、博物館の例えではすべては通らないか。でも博物的知識も究極的には「人間はなぜ生きて、どこへ向かっているのか」という壮大な哲学の一側面であるようにも思うけれど。
SNSで医療情報を発信し続けると、瞬間的にバズって承認欲求が満たされるのだが、何かストックできる仕組みと紐付けないとほんとうはあまり使えない。
ただ、すでにストックしてある情報をときどき「虫干し」する意味で、不定期にSNSというフローに載せるやりかたもあるだろう。博物館が巡回展をやったり特集を組んだりするようなものか。
そんなことをつらつら考えていたときに、FUKKOプロジェクトの人がnoteの中の人に話を聞くラジオというのをたまたま聞いて、noteのマガジン機能はストックとしての性質があるなあということを思った。SNSとの相性が良く、というか、ほぼSNSとして利用されているにもかかわらず、マガジンとして記事を選別して、自他問わずまとめることが、その名の通り雑誌的な媒体として輝きを放つ。ハッシュタグよりももうすこしストック性が高いよなとぼくは感じた。
だから以上の話をもっと掘り下げるためにはnoteのマガジンを作ることだな、と考えて、作ってみた。最近は新しいマガジンをどんどん作り出すことになんの抵抗もない。ぼくはそもそも多弁すぎるのだがこれくらい書く場所があるとしっくりくる。ジンオウガみたいにしょっちゅう放電しないと死んでしまうタイプのホモサピエンスなのだろう。