2019年10月31日木曜日

だとしたらずいぶんショックばい

奔逸した思考をかき集めて押さえつけるようにして、パソコンの前で息を吐いた。複数の仕事を同時にやりすぎた。自我が陥没してしまったような気持ち。精神が再び秩序立てて盛り上がってくるのを黙って待つ。昭和新山のような人格が立ち上がる。

最近Kindleで読んだ本が、立て続けに2冊、おもしろくなかった。そのせいで心がすこしざわめいて、疲れているのかなと思う。




ほんとうにおもしろい本を読んでいる時は、それがフィクションであろうとノンフィクションであろうと、「誰かの脳をなぞること」に没入できる。ひとつのことに集中できる。マルチタスクから解放される瞬間だ。

つまらない本というのはめったにない。人のおすすめを多く手にとるからだろう。ありがたいことである。

問題は、「中途半端におもしろい本」だ。これはしばしば遭遇する。おもしろいことはおもしろいんだけど、どうやらぼくはこの本にとってど真ん中の読者ではないようだな、というのがわかる。

本文がだんだん目の上をすべっていく。読み終わったらこの本をツイッターでおすすめしようかな、だとしたらどういうおすすめ文を添えよう、あのエピソードと絡めてみようかと、気もそぞろになってしまうともうだめだ。気がついたら、同じページの同じ行のところを何度も目で追っている。字は読めるが意味が入ってこない。そういうときにふと背筋を伸ばして、1,2ページほど戻ってあらためて読み直してみても、ぜんぜん読んだ記憶がない。ずっと集中できていなかったのだろう、仕方なく、章の最初まで戻ってまた読み直す、みたいな羽目になる。でも一度飛び去った思考はなかなか集め直せない。放牧地でいつまでも羊を集められないバイトの牧童のような気分で、自分を再統合するための手続きをくり返す。



いくつかのことをRAMに入れて同時に処理しようとすれば、結局どれも中途半端になる。だからマルチタスクというのは本当はウソで、瞬間的に一つ一つの仕事にケリを付けながら次々と向かう対象をスイッチしていっているだけなのだ。それがわかっていてなお、複数の案件を脳の中に入れておかないと落ち着かないぼくは、たぶん、心配性なのだろう。自分が見ていないところで何かが悪くなったらそれは自分のせいだと思っている。いまだにそういう思考が残っている。それで何度も失敗してきたはずなのに。




先日尊敬する人と話をしていたら彼が声をひそめて言ったのだ。

「君は本当に自虐をするなあ、やめたほうがいいぞ」

ああ、自虐という単一の概念でぼくの行動は規定されているようだ! ぼくはすこし安心してしまった。ここ数年、自尊とか自虐とか、たったひとつのやり方で自分の行動が解釈できたことなど一度もない。でもそれでは世の中をわたっていけないから、誰かがぼくをみたときに解釈しやすいように、アウトプットの部分についてはなるべくフィルターをかけてぼくの思考の最大公約数的な部分を拾いやすいようにと訓練してきた。その甲斐があった。ぼくは今、自虐的なフェーズにいたらしい。わかりやすくていいじゃないか。

行動を統一したいと思ったら優れた本を読むに限る。最近、本以外のあらゆるインターフェースを通した場合にぼくは自分の思考が一本化できなくなっていることを感じる。誰かと会って話すのが一番やばい。人と会うとき、常に抱えた思考の束の中から一番整頓できたものだけを選んで渡そうとする、その独善的な手際のひとつひとつにぼくはがっかりとしてしまい、早く帰って本が読みたいなと思うことが増えた。おそらく人生のエントロピーが増大してきているのだと思う。本はエントロピーの局所的な低下をもたらす触媒である可能性がある。