このブログで「病理の話」をだいぶ長いこと書いている。途中で糸井さんに「副題をつけたほうがいいよ」と二度ほど言われて二度目にうなずいて、第一回目にまでさかのぼってぜんぶ副題をつけた。たしかに、こうすることで、今までなんとなくどんなことを書いてきたのかが見やすく……なってないけど……ぼく副題ひねりすぎなんだな……読者のためにはなってないな……まあいいや(よくないけど)、だいぶいろいろなことを書いてきた。
書いてきたものをすこし振り返って思ったのだけれど、最近の内容はどちらかというと「病気の概念」とか「人体のメカニズム」のほうに寄っている。「医学」が多い。そもそも記事のタイトルが病理の話であって、病人の話とか医者の話ではないわけで、病の理のことだけ書いていけばいいのかもしれない。
けれどせっかく1日おきに延々と書いているのだから、ほかにももう少し目次を足してみてもいいかもなとは思った。
病理学とか医学は素材である。道具であると言ってもいい。本当は、この素材というか道具を用いて、喜怒哀楽ある人間が何をやるかにひとつ大きな意味がある。
ただしぼくは素材そのものを愛でるタイプでもある。ある病気をめぐって人々がどんな気分になっているか、それとどう戦おうとしているか、みたいな人間的アレコレが全く書いていなくても、「病気の知識」だけ読んでいてわりと楽しい。だからノーストレスでブログ記事を書き続けていると、無自覚に素材情報に満ちあふれる。オタクとして正しい生き様だ。
でもまあやっぱりもう少しコンテキストを足すか、と思った。だからこれからは素材の話だけではなく、たまに、素材を使って何をやっているか、みたいなところも書いていこうとは思う。これは賛否両論あるかもしれない。もっと朴訥なあなたでいてほしいと夜霧の向こうに汽笛の鳴り響く午後3時に桟橋のたもとでトレンチコートの女性に泣かれてしまうかもしれない。しかし、もう決めたのだ。
さて病理の話をどうコンテキストにしていくか、なのだが、たとえば現実にあった症例の話をすると、基本的にはスリーアウトどころか危険球退場、出場停止、登録抹消である。患者の個人情報をホイホイSNSに漏らしてはいけない。
具体的な病気の話をするときにはあくまで素材としてだけ語る必要がある。胃がんのメカニズムを書いてみんなに読んでもらうことはサイエンスだけれど、○○市○○区に住む○○歳の○性、○○○○さん(○○)の○○がん、の話をするとこれは一代記であり個人情報の漏洩。コンテキストとして強いのは圧倒的に後者だろうがそれをやっちゃあ病理診断医としてはおしまいである。ではほかに、どのように、「素材を現場でどう扱っているか」「道具がプロによってどう使われているか」の話をしたらよいか?
そこでちょっと考えたのだが、これからぼくがときおり出張先でどういう仕事をしているかみたいなことを書く機会をもうけてみようと思う。といっても、もっぱら出張話ばかり書くわけではなく、意図してそういう話題を付け加えようと考えた、くらいのものだ。出張先ではたいてい学術講演をしているのだが、それだけではなく、「症例検討会」と呼ばれるシーンで病理という素材を使ってほかの医療者に何やら説明をしたりする機会も多い。患者の個人情報の部分は出さないようにしつつ、臨床医や検査技師、放射線技師などからどういう質問が出て、それに自分がどう答えたか、みたいな話をちょっと書いてみてもいいかな、と思った。
これはつまり文脈の中で病理を使うというのがどういうことか、というのを記事に落とし込もうということだ。どうも難しそうだなーという予感がある。今日は予告までとして、次回以降、どこかでやると思うので気長に待っててください。