2019年10月8日火曜日

病理の話(372) 早期胃癌研究会あたふた顛末記その1

もう都心もそこまで暑くないよ。と教えてくれたのはグーグルである。2019年9月18日(水)、ぼくはお昼の飛行機で東京に向かった。早期胃癌研究会という大きな会で、病理の解説を1例だけ担当するためである。

歴史ある会だ。全国から800人もの医者(+放射線技師)が集まってくる。泉岳寺にあるだだっぴろい会場には立ち見も出る……。

……といいたいところだが、実は最近、そこまででもない。会場には空席も目立つようになった。遠くから新幹線や飛行機を駆使して集まれるほどの金銭と熱意は時代とともにやや薄まってしまったきらいがある。今はせいぜい300人くらいかな。それでもやっぱり、全国から人が集まる。ゆいしょただしい。ゆいしょ。

移動に金がかかりすぎる北海道のような地域では、本年からサテライト中継がはじまった。おかげで、もはや早期胃癌研究会に直接出席しなくても、一流のドクターたちによる症例の解析や検討をネット経由でみることができる。となるともはや札幌にいるぼくは直接会場に行く必要がない。

のだけれど今回はお仕事だ。東京まで行かないといけない。えっちらおっちら。札幌から東京までは近くて遠い。





この会はタイトルに「早期胃癌」とついているだけあって、設立当初(もう60年くらい前かな?)には主に”早期の胃がん”の解析をやっていた。

胃腸のがんに対する医学はこの60年で急速に発展した。たいていは進行した状態でしか見つけることができなかった胃がんを殲滅すべく、育ち切る前に胃がんを見つけて治すにはどうしたらいいかと、がんの初期像に対して頭をひねった人たちがいた。進行がんというのは軍隊に例えるならば大軍である。打ち倒すには手間も時間も武器もたくさん必要だ。できれば、大軍になる前に、チンピラの小集団くらいの時期に倒してしまいたい。早期に見つけたい。

だから、昔の人たちは、手術でとってきた胃をひたすら細かく「全割」し、とても肉眼では見つけられないようながんの芽を顕微鏡で見つけ出そうとした。病理医が検索するプレパラート枚数は胃ひとつにつき200~300枚くらいになったという。胃がひとつ採られるたびに、顕微鏡検索が信じられないほど長い時間続いた。だってプレパラート1枚を2分でみたとしても600分、つまりは10時間かかるんだよ。

もともと胃がんの病理診断は、病変のある部分を中心に、ひとりにつき30枚~50枚くらいをみれば必要な診断が終わる。手間だけ考えても数倍。学究目的で顕微鏡をみるときには余計に時間がかかるからきっと今の10倍以上の時間をかけたろう。そうやって丹念に、胃をすみずみまで検索することで、我が国の胃がんの診断学はここまで進歩してきた。

むかしのえらい人たちは胃を細かく切って胃がんの芽を探すだけではなく、ひとつのところに集まって、バリウムや内視鏡の写真をみて、早期の胃がんというものを臨床医はどうやって見つけたらいいのかと議論し合うことにした。ひとりで延々と時間をかけるだけではなくそれを持ち寄ることにしたわけだ。病理のプレパラート写真を投影しながらみんなで討論をする。これが早期胃がんなのか。いや、これはだいぶ進んだ胃がんだろう。もうすこし早く見つけるにはどうしたらいいか。どうやったら胃粘膜にひそんでいる早期のがんを見つけ出すことができるか。つかみ合いのケンカがはじまりそうなテンションで、精鋭達の劇場型バトルが毎月開催された。

熱心な消化器内科医、外科医、放射線科医、病理医たちがこうして毎月一同に介すると、胃だけではなく大腸や食道の話もついでにしようじゃないかと考えるのは自然なことだろう。かくして、早期胃癌研究会では、早期の胃がんだけではなく、食道がん、大腸がん、そしてがん以外の消化管の病気をも検討する会となった。





めずらしい、なやましい症例をもった臨床医が、研究会に応募して審査を待つ。

審査員は症例の写真をみる。胃カメラ・大腸カメラで撮影した病変の画像。そのクオリティ、意図をよみとる。全国から人を集める会に、うつりのわるい写真、意図が薄い写真を提示しては恥ずかしい、ということなのだろう。症例は厳しく選別される。

1例につき、会場で検討されるのは30分だけ。たったその30分のためにえらい気合いの入れようだ。最初の20分~25分では、会場に集まった医者の中でもとくに「読影委員」と呼ばれるエースが、巨大スクリーン2面に投影された症例の画像をその場でみて、根拠とともに病変の姿を読み解いていく。マイクを使い、静まりかえる会場の最前列で、観客席に尻を向けてスクリーンを凝視する姿が、会場からはシルエットとしてさみしく見える。影が影を読むのだ。

ひとりの読影が終わるとすかさず会場からツッコミが入る。

「おおむね同意です。まず病変の範囲についてですが私はちょっとだけ違って……。つぎに病変の深さですがこれもすこし違って……。最後に想定する病理像ですがこれもすこしだけ違って……」

どこが同意しているのか。まるで違う意見だ。まったく同じ臨床画像(胃カメラやバリウム、超音波などの画像)を、異なる医者が「読む」と、これだけずれてしまう。もちろん、どの医者も「この病気はただ事ではないぞ」と気づくところまではいく。実を言うとたいてい治療法についてもさほど違いは無い。つまりは「今、その患者のためにできること」としてはここまでの細かい議論は必要ないことが多い。しかし、その細かい違いがもたらす病気のメカニズムの差が、将来的には治療法の違いにまで直結するかもしれない。だからみんなとても真剣なのである。


早期胃癌研究会は18時から21時までの3時間開催だが、その間に5例の症例検討が行われ、途中にミニレクチャーや表彰式などが挟まる。1例30分という時間制限は「厳守」。議論がどれだけ白熱しても30分を超えるとブーイングである。しかし、難しい症例だとどうしても、時間を超えてしまうことがある。赤面必死の時間超過は、そして、たいてい、病理医の責任となる。なぜかというと、最初の20~25分の読影のあとに病理医がでてきて、その症例の病理像(プレパラートをみて診断した結果)を解説するのだが、病理の検討が臨床医たちの読影よりも深くないと納得してくれないからなのだ。たった5分の病理解説に不備があると、それまでお互いに殴り合っていた臨床医たちが突如肩を組んで病理医のほうに突進してくる。関ヶ原のわきの展望台でのんびりお茶を飲んでいたら徳川と石田がそろってこっちに矢を放ってくる。

早期胃癌研究会での病理解説はとても胃に悪い。

ぼくが解説を担当するのは10か月ぶり。前回も、今回も、自分の病院の症例ではなく、他院から頼まれて解説をすることになった。まだ戦っていないのにすでにほうほうの体である。飛行機が羽田についた。さあようやくこの日の思い出話……と言いたいところだが話が長くなりすぎるので次回(あさって更新)に続く。