「医療本」を読んでいたら夜が明けた。信頼できる医者が丁寧に書いた本を、これまでに何冊も読んできたが、きちんとしたエビデンスに基づいており、あやふやな情報を安易に掲載しないように気配りされている、その結果、だいたいどれも似通った、どこかで見たことのあるような文章ばかりになっている。「よい医者が書いた本ほど飽きる」。でも、飽きるけど役には立つから読んでいる。そしていろいろ考える。
医者の言うことに飽き飽きするというのは、もう、しょうがない。運動、睡眠、食事がだいじ。ぜんぶ聞いたことあるよ! 何度も聞いたことあるよ! でもこれらは、しゃべるほうの口が酸っぱくなり、聞く方の耳にたこができるほどに(これらの表現も「カビが生えるほど」古くさくて既視感があるが)、何度も何度もやりとりされるべきだ。そうやってようやく情報は世の中に浸透していく。古典落語のように語り継がれてほしいもの。
今、ふと落語のたとえを出したが、誰もが語っていることを今さら語り直すには、おそらく落語家のような「噺の上手さ」が要るのだろう。内容が同じであっても語りがうまいとスッと心に入ってくる。今、医者が情報を出すにあたっては、発信者がいかに「落語的能力」を身につけているかが重要なのである……。
といった、「結局は発信者が上手かどうかでしょ」というところに、どうしても話が戻っていくのがやるせないなあと思う。ボクトツで口下手であっても情報がおもしろすぎるので聴き入ってしまう、みたいな関係に、ぼくは以前よりも強くあこがれている。
たとえば、信頼関係ができあがった主治医と患者との間では、主治医が多少口下手であっても患者のほうが意図を汲んで、「あの先生はちょっとしかしゃべらないけど私にいいことを言ってくれてるのがわかるのよ」と、なんだかうまくいっている、みたいなことが起こる。そういう関係って大事だよなーと思う。噺家の熟練技術でなく、長い時間をいっしょに過ごした関係性によって情報を共有。これ、たぶん最強だと思う。信頼関係による情報伝達には、弱点がちょっとしかない。「信頼はあるけど情報がザコいパターン」と、「まだ信頼関係が構築できていない不特定多数の人に一気に情報をわたすのには使えない」くらいだろう。ちょっとだ……しかし、かなり大きい。ワクチンとかお薬手帳とか予防医療といった「多くの人にいっぺんに知って欲しい話」を、医者が、これまで出会ったことのない、「将来自分の患者になるかもしれない人」にいっぺんに伝えることが、いかに難しいか。
ワクチンの伝達はかなりうまくいったほうだ。ほとんど医療との関係がない人たちも含めた全国民の8割の人が打ち、6割の人が3回目まで打ったのだから。しかし、目の前で人びとがどんどん感染して病院が患者であふれ、町から人がいなくなるという「目に見えた恐怖」によって駆動された情報伝達が、いつもいつも使えるわけではない(し、本当はこんなことは二度と起こってほしくない)。この先だれがどう工夫をこらしていくべきか。医者は噺家になり、コミュニケーターになり、多くの人びとと緩い紐帯をむすび……どうも役者の数が足りていないのではないかと思う。医者の書いた本を読みながらそんなことを思った。この本はいい本だ、ただし、圧倒的につまらない……。