当時、「胃生検」と呼ばれるものをよく見せてもらった。あちこちの病院から集まってきた生検の検体は、さまざまな理由で患者から採取されていて、大きさは小指の爪の切りカスより小さいのだが顕微鏡でみるととてもバリエーションが多い。
最初は、教科書に書いてあるような所見がどこに出ているのかよくわからず、ガラスプレパラートをみるたびに違う像が目に飛び込んできて、いったいいつになったら「あっ、これはあれだな。」とズバリ診断できるようになるのかと途方もない気持ちがした。好中球はどこだ。リンパ球とはどれだ。好酸球というのもあるのか。形質細胞はリンパ球とどれくらい違うのか。腸上皮化生とはどれを言うのか。びらんとはなんなのだ。
あるとき、外部から来ているベテラン病理医に、「プレパラートをひとつ見て、1種類の病態を覚えるやり方でもいいんだけど、ある領域をまとめて勉強しておくのも手ではないか」という話をされた。ニュアンスとしては、「公文式で数字だけを入れ替えた二次方程式をひたすら解きまくるのもいいけど、一度は参考書で二次方程式の概念を『通しで』勉強したらいいんじゃないか」みたいな話だった。そうか、なるほどな、と思って、ぼくは幾人かの先生から、「胃炎とは」のような話を習った。
それがてきめんによかった。ピロリ菌という菌が胃に棲み着くことによって、胃には段階的な変化が起こる。段階ごとにプレパラート上の像はどんどん変化していくのだけれど、プロセスの全貌をなんとなくわかっていると、多彩な顕微鏡所見も「この胃炎の段階は、富士山の登山でいうとだいたい6合目くらい、ってかんじだな」みたいに頭に入ってくる。
こうして、ぼくは大学を出るころには「胃炎」の診断になんとなく自信がついた。胃炎だったらだいたいどの段階であっても診断を書ける、と思ったのだ。
しかしそれは早とちりであった。ぼくが学んだのは「ピロリ菌によって引き起こされる胃炎」だけだったのだが、病理診断を続けていくと、ピロリ菌以外にも胃炎の原因があるということを知った。それはある種の薬剤による副作用であったり、あるいは「自己免疫性胃炎(いわゆるA型胃炎)」と呼ばれる別の病態であったりした。
ぼくはそういう「珍しいタイプの胃炎」に出会うようになった。そこでまたもや公文式方式で、出てくる検体にそのつど対応して勉強をしていくのだが、かつて学んだ「胃炎とは」の概念にはおさまらない特殊な胃炎は、手強かった。
今、だいたい自分が富士山の何合目にいるかはだいたいわかるつもりだった。でも、毎回自分が富士山を登るとは限らない。ここは白根山かもしれないし槍ヶ岳かもしれない。山ごとに道を覚えなければいけない。
さらに言えば、いくら山ごとの登山道を覚えても、けっこうな頻度で、「そもそもこれはどこの山なのだろう?」と悩むような症例に出会った。ときには、これは登山の例えではうまく伝えられないのだけれど、「富士山と槍ヶ岳を同時に登っているような」風景を目にすることもあった。
さらに、病理診断というのは、胃だけを見ていれば終わるわけではない。大腸を見なければいけない。乳腺を見ることもある。膀胱を見たり、胆嚢を見たり、筋肉を見たりもする。これはつまり、山だけではない、ということだ。航海もするし、ジャングル探検もするし、宇宙にも飛び出していかなければいけない。
歩いたり、泳いだり。俯瞰したり、接写したり。少しずつ、少しずつ、わかる風景を増やしていく。
そして今は……もうおじさんだからさすがにわかってきた……と言いたいが、そうは問屋が卸してくれない。なんと、「富士山の形が変わる」なんてことも起こる。つまりは覚え直さなければいけないのだ。
たとえば社会におけるピロリ菌の感染率が減少したことで、「ピロリ菌による胃炎」というプロセス自体が少なくなり、胃の診断の全体マップが描き直しになった。海でもジャングルでも宇宙でも似たようなことが起こっている。
少しずつ、少しずつ、俯瞰と接写をくり返して、「病理の歩き方」を更新し続ける。地球の歩き方といっしょだ。毎年新しい本が出るのだ。いつまでも歩き続けなければいけないのだ。