ガッ! と一気にこの場所に文章を書いて、ぱっとモニタから顔を話して、ぐっと読み返して、つまんなかったので消した。今はいちからぜんぜん違うことを書き始めており、この文章が公開されたということは、二度目に書いた文章が自分なりにOKだったということである。
……このようにを書くと、自分で読んでおもしろい文章だけここに載せているみたいなニュアンスを受けるだろうけれど、そういうわけではない。「つまらない」の反対は「おもしろい」ではないと思う。たぶんもうちょっと幅が広い。自分が書いたものに対して生じる「つまらない」の対局にあるのは、おもしろいとか興味深いとかではなく、「これは確かに今の心のざらざらした部分に手を当てて振動を感じた結果導き出されたものだ」ではないかと思う。「おやっ」の感覚が文章の中に残っていれば、つまらなくないものになる。誰もがそれをおもしろいと感じるかどうかは別だ。しかし、少数の誰かはそれに目を留めてくれるのではないかと思う。
さっき書いた文章はつまらなかった。五感のどこにも引っかからず、スルスル流しそうめんのように流れて読み終える感じだ。手癖で書いたな、という雰囲気。まるでAIが作った文章のようだった。
「AIのおかげ」で、ぼくは最近の自分のブログが相対的にいきいきとしてきたのではないかと思っている。確たるデータがあるわけではないけれど、どうも、AIブームが広まるに連れて、引っかかり、差異、違和みたいなものが削られて平板化したつまらない文章が増えているような気がする。たとえば仕事のメールあたりはだいぶ置き換わってきたのではないか。直接AIを使うかどうかは関係ない。「そういう文章が受け入れられる風潮」が隠し味のように世の中を微調整しているのだと思う。
文章のでこぼこ、ざらつきを残した、引っかかる文章を書きたい。もっと接続詞を多めにしよう。もっと句読点を雑に打とう。改行とスペースを空けて読みやすくする技術なんて捨ててしまおう。伏線を張らず、レトリックにおぼれず、読む人の不安がどこの場所にも引き受けてもらえないような不穏な文章を産み出そう。題材に学びを入れてはいけない。気づく前に書くのだ。成長したなら黙っているといい。後退している最中に「あいのおもいで」を使うことでオリビアののろいは解けるのだ。
ある種の自覚はある。ぼくはもう自分が考える範囲での「到達」をしたのだと思う。イキる必要がなくただ生きていればいい。だからブログに野心を出さなくてよいし、可能性を広げなくてよい。できるだけ多くの人に見てもらうことで仕事をやりやすくするような戦略をとる必要がない。だからこういう文章を書いて、残して、あとで見て、「おや……うーん」という感想をひとり静かに脳内でつぶやくことができるのだと思う。