ワクチンを打たないという選択をした人が感染症にかかってしまったらしく、多くの自称医療者からボコスカに「ほれみたことか」「ほれみたことか」と叩かれているさまを見た。それが医療者のやることかとがっくりしてしまった。データが正しければ患者の心を蹴ってもいいのか。理解の範囲を超えている、なぜそこまでして人を叩けるのか。何か理由があるのだろうか。ちょっと調べてみると、どうやらそのワクチンを打たなかった人は、自分だけではなく周りにもワクチンを打つなと言って回っていたらしく、さらにはワクチンを進める医師やジャーナリストたちをことあるごとに罵倒していたからその報いを受けていたのだという。なるほど、「自称医療者たちがここぞとばかりに叩きたくなる理由」は理解できた。しかしまったく共感はできなかった。データの使い方が間違っている。データで心を殴るな。勝手に報いるな。
しかしデータを無視するのもそれはそれでどうかしている。医療は心や都合だけで運用されるものではない。それは先人達の苦難の歴史から背を向ける子供じみた反抗に過ぎない。微調整の過程で得られた無数の知見を、常に最先端の未来に生きている我々が活用しないのはもったいない。心でデータを踏みにじるのだって同じくらいおかしい。理論だって必要なのだ。確率という暴風雨に耐えるだけのしなやかさを手に入れなければいけないのだ。
つまりは両方が必要である。そしてすべての因子はひとりの人の身に降りかかってくるものであり、統合されてはじめてひとつの人生を浮き上がらせるものである。誰かは心だけを、誰かはデータだけを扱えばいいというものではない。みんながみんな、それぞれに得意・不得意があるのは承知した上で、それでもすべてに向き合うことが望ましい。
望ましい。
そう簡単ではない。
だからそれぞれにサポートセンターがある。心をサポートしてくれる人がいる。都合をサポートしてくれる人がいる。理論を、確率を、専門家がきちんとサポートしてはじめて全人的な医療がなんとか形になる。
「病理の話」とはデータをサポートするための知恵のひとかけらだ。それだけのことでしかない。それだけのことを800回書いている。一万分の一も書けていない。