2023年7月21日金曜日

そうは言ってもたまには見直しなさいよ

ぼくはよく、ひとつの文章の中にたくさんの枝葉をまぜた書き方をする。これはぼくの作文スタイルが「音声ベース」だから起こることだろうと自分なりに予想している。


「あるひどく暑い夏の日、いつものデスクで仕事をしていたぼくはエアコンの真下にいたにも関わらずだくだくと汗をかいていた。仕事用PCの横にある窓から輻射熱がじわりじわりと、ワイシャツを腕まくりした肘元に伝わってきて、そこから肩のほうに熱が上がってきて、耳もきっと(直接見えはしないが)真っ赤にゆであがっている。そういえば足の静脈も拡張しているようで足の裏はパンとむくんだ感じがする。自前のラジエーターシステムは限界なのだ。しかしぼくはそれでもとにかくこの文章だけは晩飯の前に書き終えてしまいたかったのだ。」


てきとうに今起こっていたことを書いた文章である。ぼくの頭の中でぼくがしゃべった声をそのまま書いた。伝えるべき内容はそんなにない、夏の夕方に暑くて汗が出たというだけの話だ。しかしまあ見事に、たいていの品詞に一つか二つの修飾語がついている。よりみちが多くてなかなか結論までたどり着かない。これがぼくの本来の「書き癖」なのであろう。そしてこの書き癖とはそのまま、「語り癖」である。


何度か自分のしゃべりことばを文字おこししたことがある。ある症例について複数の専門家たちと語り合う「座談会」を書籍化した。このとき、ぼくのしゃべる内容がまさに、さっきの文章と同じような感じなのであった。


「胆嚢にも層構造があるわけです。胆嚢に限らず消化管というものは、内腔にあるやわらかい粘膜、その少し外側の粘膜下層、そのさらに外にある固有筋層、それをとりまく漿膜下層もしくは漿膜下組織といったように、同心円状、あるいはこの場合は同心筒状と言った方がいいかもしれませんが、バームクーヘンのようになってうねうねぜん動しつつ『内部にある外』、『トポロジー的な体外』を流れる物質との相互作用を目的として機能しているからなのですね。」


こんなことを平気で言っている。文章にすると何を言っているのかいまいちわからない、というかくどい。座談会のときには周りの人はうんうんとうなずいており、きちんと理解もしてくださっていたので、なにか、言葉とか音声とかではこれでも通じるニュアンスがあるのだろうが、文章だとどうにも読みづらい。そこで次のように整理をする。


「胆嚢には、層構造があります。内腔から順番に、粘膜、粘膜下層、固有筋層、漿膜下層と、バームクーヘンのように層が重なっています。粘膜によってつつまれた内腔部分は、トポロジー的には『体外』にあたり、胆嚢の内腔には胆汁がため込まれています。」


省略どころか単語や文章を足したりしていて、まるで違う文章なのだけれど、読むならこっちのほうが伝わるし、ほかの人が座談会で話した前後の内容ともこっちのほうがきちんとつながる。

ぼくの脳内で鳴り響いている「しゃべり声」は常に過剰だ。そしてリズムに乗っている。聞く人に「結局なに言ってたかはよく覚えてないけどなんかすごかったな」みたいなことを感じさせる。

その過剰さをそぎ落としてようやく人が読める文書になる。できれば語り言葉でもそぎ落としたほうが丁寧だよな、と思って、講演をするときなどはなるべく意図して、一文を短く、よけいな修飾語を用いず、ストーリーに一直線に進んでいくようなしゃべり方を選ぶ。



しかし最近よく考える。ぼくの本体は「過剰さ」そのものなのだと。中に何か、本質的な芯があるのではなくて、中には誰でも言えるようなどうでもいい芯を申し訳程度に一本通して置いてあとは周りをゴテゴテキラキラ、デコレーションしていく姿こそがぼくのアイデンティティを一番反映しているのだと。クリスマスツリーは飾りが大事なのだと。それがなければ単なる針葉樹なのだと。


まわりが困惑するのは、ぼくがわかりにくいしゃべり方をするからではなく、ぼくが本質的に困惑されるべき人間だからだ。うまくしゃべれば困惑されない、のではなく、自分らしさを抑え込めば困惑されない。逆に言えば、人びとを困惑させているときのぼくにこそ、他でもないぼくがここで何かをしている意義というか交換不可能性がある。


いつからかBlogger(このブログ)の文章をあまり推敲しなくなった。ときに誤字もあるのでたまにフォロワーに指摘される。たとえば今の一文、「ときに誤字もあるのでたまにフォロワーに指摘される。」は、たった1回見直せばすぐに。「誤字をフォロワーに指摘されることもある。」で十分だとわかる。しかしぼくはそれをやらない。なぜなら、ぼくの脳内に響いたぼくの声は、「ときに誤字もあるので、たまにフォロワーに指摘される。」としゃべっているからだ。それを画面にそのまま表示して、そこから何が自分に跳ね返ってくるのかと、じっと鏡をみるように、自分の声を読むためにこのブログはある。自分の痕跡を消すような推敲はほどほどにしたほうがいい。読者のためならまだしも、自分のために書いているのなら。