2020年12月15日火曜日

つまんない本を完読する

今日のテーマ、「つまんないんなら途中で投げ捨てればいいべや」というツッコミが来て終わりな気もするし、斜め読みでも拾い読みでも読書には違いない、という哲学もあるし、「つまんない本を完読する」というタイトルがどれだけの人に刺さるかというと、たぶん刺さんないと思うんだけど、ちょっと語ってみる。




つまんない本を完読すると達成感がある。


「なんでこんな内容で一冊書こうと思ったのか」の全貌が見えてきたりすることがあって、ゾクゾクする。


最後の最後に著者の本音がダダ漏れてたりする。


ずーーーーっとつまんなかったけど最後からめくって3ページ目くらいのところに急激にエモい話が出てくる、なんてこともあって油断はできない。


ぼくにとってはつまんないんだけど、これが楽しいと思う人は相当いっぱいいるだろう。


この著者の選んだ、鼻につく書き方を、技術として貫くぞと決めた思考回路をトレースするのはおもしろい。


自分とまったく違う視座からたどり着いた他人の結論を見て、ずいぶんと飛躍してるなあ、などと安易につっこむことは危険だ。見る角度を変えれば、ぼくの側から見えていた穴は奥のほうで塞がっているかもしれない。ぼくから見ればマリオの大ジャンプが必要でも、向こうから見たらドラクエ方式のノージャンプウォークで十分回避できるかもしれない。


書籍編集者はこれでよしと思って出版したわけだ。

版元の営業はこれでよしと思って本屋に紹介したわけだ。

書店員はこれがいいと思って並べたわけだ。

その価値観とぼくとが合わないというのはどういう構造なのか?

外れているのはぼくのほうなのではないか?

そうやって探っていくのもまた楽しい。


昔読んだ本と比べてみる。先にこの本に出会っていたらあそこでどう変わっただろうか、みたいなことを考える。摩耗した今だからこそ言葉が入ってこないだけで、鋭敏な感性をもっていた昔ならもっと浸れたかもしれない。中学生の時ならどう思ったろうか。大学院のときならどう受け止めただろうか。


なんでもかんでも最後まで読めと言っているわけではもちろんない。「途中で読むのをやめてしまった読書」にだって価値がある。そこにまとまった量の文章があるのに思わず読み飛ばしてしまうとき、財布を開いて自腹を切って買ったのに途中でシュレッダーゴミと一緒に捨ててしまうとき、自分の脳はどういう選択をしているのだろうかと追いかけていくと、なかなか複雑な感情にぶち当たることもある。


これはあくまでぼくの場合なんだけど、どんなクソみたいな本でも、あるいは逆に最高の辞書を前にしたときとかも、「完読」することでだけつかめるフンイキみたいなものが多少ある。途中ガクンガクンと首を折りながら寝てしまった場合でも、とにかく最後まで自分の指でページをめくり続けた記憶さえ残っていれば、その本が本棚に挿さっているのを見たときに、いつもある種の独特な感情に包まれる。これが完読したときの「ごほうび」なのだ。この本を確かにぼくは最初から最後までめくって文字を追ってみたんだ、つまんなかったけど……。ブツブツ言いながらしまった本が、まれにあとで光り輝くことがある。たとえばゴリゴリのハードSFなんかで経験することだ。純文学、恋愛小説、自己啓発本とかでもあり得る。まあ自己啓発本を読んでよかった試しはないのだけれど、それもあくまで「今のところは」という注釈つきだ。


フーン興味ねぇなーつまんねーと思ってから何年も何年もその小説のことが気になってしょうがない、ということもある。まして、「どこがおもしろいかはわかんないんだけどなぜか最後まで読んでしまった」なんてのは読書の中に厳然と存在するひとつの「萌え」。ペルディード・ストリート・ステーションというSFが完全にそうだった。何がどうおもしろいのか説明できないし、これってぶっちゃけつまんねぇんじゃねぇかなと半信半疑で最後まで読み終えて、ぱたりと本を閉じたときに「あああ読んでよかった気がする……」と深く息をついた、あれはたしか札幌から釧路までJRで4時間10分かけて移動していた車内の、おそらく帯広を超えて白糠あたりに停車したかしないかで、ぼくはこのクソ長いSFを読み終わって大きくため息をついて、そのあと釧路に着くまでの短い時間で何度も何度も表紙を見直してはため息をついたのだ、あらすじなどは全く覚えていない、しかし「ぼくはこれでSFを読んだと言えるんだ」という達成感と、脳の中に尾を引くように残るSF色の残像に身を委ねる不思議な快感とに包まれて、ぼくはディーゼルの走行音の中で幸せに居眠りをし、世界にこんなことを書こうと思った人と、編もうと思った人と、売ろうと思った人と、買ったぼくとがいたのだなあと、なんだか本当に救われたような気持ちになったのだ。