2020年12月21日月曜日

見ささる聞かさる言わらさる

「たれぱんだ」や「リラックマ」、あるいは「プーさん」や「ミッキー」のグッズをかばんに付けたり手帳ケースにしたり、ローソンでお茶を買ったときの小物を集めたりする人は「オタク」とは呼ばれず、「かわいー」とチヤホヤされる傾向があるのだが、これが「鬼滅」や「ゆるキャン△」、「プリパラ」や「アイマス」のグッズだと、同じローソンであっても「オタク」と呼ばれて「きもいー」とイヤハヤされるのはなぜなのだろうか?


答えはコンテンツそのものに含まれているというよりも、コンテンツが育んできたユーザーもしくは周囲環境との関係性にあるので、コンテンツの絵柄を細かく解析したところで両者の差はなかなか見出せない。「最初にどの界隈で流行ったか」にも答えは隠れているだろうし、「声優さんがどこまで関与しているか」にも関係するかもしれない。


何かを解析するときに、そのもの自身をいくら掘り下げても見えないモノがあると気づいたら、観察眼の眼輪筋にかかる力が少し変わってくる。


筋肉にグッと力を込めて、水晶体をゆがませて、強いレンズ効果を引き出して、より細部を、より近接して眺めてばかりではだめなのだ。


目の周りの力を抜いて、水晶体を弛緩させて、全体をぼんやりと、見るというよりは眺める、あるいは「見えてくる」、さらに北海道弁を用いて表現するならば「見ささる」状態まで持っていってはじめて見えてくるものがある。






大学時代まで剣道をやっていた。相手の目を見ながら剣先を見て、同時に相手の手元を見て、そして相手の右足の動きを見る必要がある。どこかを「注視」するとたちまち相手にそれが伝わる。相手がぼくの右コテを見たなというのはわかるし、ぼくが相手の面の左上あたりを見たら相手がそれを察する。だから、お互いに目線で「牽制球」を投げるように、「今そこを見ているのはブラフだからな」という動きを小刻みにやっていく。

三段になって数年経ったときに、当時の師範に、「もう少し全体を見てもいいと思う」と言われたのでいろいろ試行錯誤した。そのときぼくがやったのは、向かい合った相手の2メートルほど後ろに、ジョジョのスタンドのように「相手がもう一人いる」ことを思い浮かべて、そのスタンドの方に目のピントを合わせるというやり方だ。すると相手の本体はむしろぼんやりとピント外れで見えるのだが、これをすると全体が同時に見える、いや、「眺められる」、というか、「見ささる」。スタンドの位置があまりに遠いと本当に何も見えなくなるのでバランスが難しかったが、慣れてくると、「相手の右足が親指ひとつぶん前に出てくる直前の重心移動」がわかるようになり、いわゆる「後の先」(相手より後に動き出すのに相手より先に打ち据えること)ができるようになった。最終的には「相手がまだ動いていないのだけれど、相手の脳がこれから動くぞと指令を送っている最中にこちらが動き出す」こともできるようになり、そこから団体戦では2年間無敗となった(個人戦では普通に負けました)。






こうしてエピソードを書いていくというのが実は「微視的」だと思う。文章を読むときも常にピントを文面の後方にあわせて「ぼうっと全体が見ささるようにする」。そこで気づくことがある。「なあんだ、個人戦は負けてるんじゃないか」。


このように人生の経験をアレンジして自分なりに考えて使っている。精度はイマイチだが……。