2020年12月2日水曜日

病理の話(480) 臨床と研究と教育と

大学時代には至る所で耳にした話。


医者の仕事は三つあるのだという。臨床、研究、教育。


臨床というのはあらためて眺めてみると変なことばだが、「ベッドサイド」(患者の寝ている横にいること)の日本語訳である。患者に直接会って話して手をさしのべる一連の医療行為のことをいう。


でも医者の仕事はベッドサイドだけでは終わらない。医学の研究をして、新しい治療法を開発したり、病気の正体を今までよりもっと解像度高く見極めたりするのも、立派に「仕事」だ。


さらには教育。自分一人がフルで働いたら年間に1000人の患者を相手にするとして(それはだいぶ優秀なほうかもしれないが)、その勤務時間を削って、相手にする患者数を500人にまで減らしたとしても、かわりに「年間200人の患者を担当できる後輩を10人育てれば」、より多くの患者を救えるだろう。


「これらをすべてやるのが医者だ」。




……でも実際には、この三本柱の比率は一様ではない。人生の三分の一を臨床、三分の一を研究、三分の一を教育に当てている、というバランスの良すぎる医者を、ぼくは見たことがない。


大学にいる人間たちの多くは研究がメインだ。「いや、自分は大学にいるけれど、臨床がメインだよ」という人を15年も観察すれば、99%は大学以外の場所で働くようになっている。大学というのはそういう場所だ。


逆に、市中病院の多くは、研究をする環境が大学ほど整っていない。そして臨床がメインとなる。研究をしっかりやっている医者もいるのだけれど、よくよく話を聞くと、そういう医者は「市中病院に在籍してはいるけれど、実は大学にも籍を置いている」ことがほとんどである。


教育をメインにすえている医者をあまり見ない。教育を相当熱心にやっているなあ、と感じる医者は多いが、それでも、臨床と教育を半分ずつ、というくらいのバランスであって、教育が臨床を上回るような医者はほとんど存在しない。なぜなら、医者の世界で教育をしようと思うと、生意気な後輩達が、

「おまえ、偉そうに先輩面してるけれど、臨床の経験たいしたことねぇじゃねぇか」

と蔑んでくるからだ。教育をしっかりやろうと思ったら、臨床の経験を磨かないとうまくいかない。




じゃんけんよりもう少し複雑な三角関係がある。臨床・研究・教育をどの配分でこなすかというのは人それぞれ。


で、ぼくはどうなのか、という話。


ぼくの精神力の割り振りは、


臨床:40%

研究:20%

教育:40%


くらいではないかと感じる。昔はもう少し臨床が多かったのだけれど、「病理診断医が臨床診断にかける時間は年次をかさねるごとに短くなる」。勤め続ければ診断の速度は早くなる。おかげで教育の割合が増えてきた。


臨床医の場合はこうはいかない。診断のスピードが速くなったら、その分で患者に向き合う時間を延ばしたり、治療の判断や実施にかける時間を長くしたりすることができる。この場合、診断が早くなっても「臨床」に向き合う時間は短くならない。


しかし病理医は診断しかしない。だから診断が早くなれば、余った時間はまるまる、「研究」と「教育」に振り分けることができる。そしてこのことは、「病理医」という職業を考える上で、実はすごく大切なことなのではないか、と考えている。


いっしょに働く臨床医たちのために、忙しい臨床医たちに変わって、最新のガイドラインを読んで理解してただちに現場に反映させること。


臨床医たちに混じって、症例に病理学的な解釈を加えながら、臨床医の疑問を解消する方向に会を導くこと。


学生や修行中の若い医師への指導。これらの時間をどんどん増やしていくことで、トータルで医療の底力を上げるように立ち居振る舞うこと。


これらを「ドクターズドクター」(医者のための医者)と呼んでいる人があまりに多くて閉口する。ぼくらのやっていることは「ドクターズティーチャー」ではないか。「先生(医者)のための先生(教育者)」であろうとすること。センセイズセンセイ。




ま、人それぞれ、好きに配分すればいいんだけど。