2022年6月1日水曜日

変わった社会

思慮深い教員と話していると、「変わった学生」に対する大人達・教師側の反応が見えて、興味深い。



一例として、

「あの子は変わった学生ですから要注意ですよ」

といった言葉が教員室内でささやかれている場面を考える。非常によくあることらしい。



その学生が「変わった」と言われる理由は、「よくわからない理由で授業を休もうとする」であったり、「課題の提出が遅れたときの言い訳がへん」であったり、「講義に対する注文の仕方が独特」であったりする。


おかしないいわけや申し開きをする、教師の言うことを聞かずに刃向かってくる。


ところがこれらはよく考えるとお互いさまだというのだ。少なくとも、ぼくと話しているその教員は、そのように示唆している。



学生が「よくわからない理由で学校を休む」ことに対して、すべての教員がその理由をわからないわけではない。「ああ、そういうことはあるよね」と、学生の気持ちを理解する教員もいる。しかし、学生側の理由をあっさりと「自分にはわからない」と断じる教員もいる。


「課題が遅れた理由はそれなりに理解できるから、次に期限内に提出できるようにするための対策をいっしょに考えよう」と接する教員もいる一方で、「決まりは決まりなのだから期限内に出せなければそれは普通に悪であり減点」ときっちり裁く教員もいる。


教員側に出された注文に対し、「この注文が出るくらいには問題意識を持っているのだな」と、注文の裏にある心の動きを探りに行く教員もいれば、「教員に対して意見をする時点で学生として不適格」と言わんばかりの態度をとる教員もいる。




このように列挙されると私はいろいろ考えてしまうのだが、そこですかさず話し相手が言ったのが、次のような言葉だった。


「つまりこれって、教員側が変わっているんですよ。変人という意味でなく、『千変万化』の『変』です。教員も人間なので、当たり前のように多様です。学生に対する態度が、教員ごとに『変わって』いる状態ですよね。逆に言えば、教員室で話題にものぼらない『普通の生徒』とは、なるべく多くの教員に目を付けられないように個性を殺して気配を消している学生です。変わった教員の目に留まらないようにすることが、教員室から見た『普通』になる。」


なるほど。私はうなった。できるだけ自分の物差しだけで全てを判定したい人が教員をやると、自分の基準から外れた学生を「変わった子」として片付けてしまうのだろう。まったく困ったことだ、そういう人は教員に向いてませんね、と私が言うと……話し相手は、わりとはっきりとした口調で言った。


「必ずしもその教員の『とが』として片付けるべきでもないと思います。それだと、教員側が多様であることをもまとめて否定してしまいます。学生の多様性を受け止められないことは確かに問題ですが、返す刀で教員側の多様性を縛ってしまうのも、やり方として過剰ではないでしょうか。」


私は思わずだまりこんでしまう。そこまで考えていなかったからだ。話し相手は続けて言う。


「いろいろな受け止め方をする人がいるのが社会であり、相手と自分とが違う価値観で生きていることに気づけない・気づかないままの方がラクだという価値観でしか生きられない人もいます。それによって害を被る人がいることに目をつぶってはいけませんが、かといって、そういう生き方しかできない人をすぐに否定するのも不寛容です。」


でもそれでは結局、「変わった学生だよ」と言われたほうがかわいそうではないか。


「はい、そうです。教育現場に限らず、社会ではかわいそうなことがいっぱい起こりますね。だから、そういうかわいそうなことを言われた人に対しては全幅のサポートをしなければいけません。そういうものだよね、と言ってあきらめてはだめです。そして、『罪悪感なく他人にかわいそうなことを言ってしまう人』にも、責めるよりもむしろサポートをしなければいけません。」



呆然としてしまう。しかしゆっくり考えて、こうして文章にして読み返すと、言いたいことはかなりわかる。「ひでえ大人はいるよな!」と言う言葉の持つ暴力性、というところまで私はこれまで考えていなかった。そのひどさを無視しろというのではない。そこを「ひどい」で考え終えてしまうことが短絡だ、ということなのだろう。わかってきた気はする。ただし、わかりはじめたばかりでもある。