ブルーピリオドの12巻には「チューニング」という言葉が出てくる。アフタヌーン連載時にもここで「うっ」となった。どういう文脈で出てくるかというと、
会話するときに、相手にしっかり「チューニング」してしゃべってくれる人はすごい
という意味で出てくるのだ。
教師が生徒を指導するとき、友人どうしでお互いに何かを注意しあうとき、あるいはもっとフランクに、誰かと誰かが疑問や意見を交わすときに、相手がそれまでに用いてきた言葉、育ってきた環境、立ち位置などを加味して、「そこに波長が合うようにチューンする」と、聞いているほうは「なんてわかりやすくしゃべってくれる人なんだ!」と、ものすごく感動する。
そういう話が出てくる。そこで「うっ」となった。今もなっている。
これを読んで、チューニング最高! と言いたくなるわけではない。
相手に合わせてしゃべれる人はカリスマ! と言いたくなるわけではない。
むしろその逆なのだ。そこで「うっ」となる。
ブルーピリオドというマンガ自体、「相手にチューニングするのがうまい人」に対する疑念、うさんくささ、「宗教」のあやしさみたいなものを丁寧に描いているので、おそらく多くの読者もまた、「チューニングがうまい人としゃべりたい~」というストレートな感想は持たないし、持てない。この作品の凄みはそういう細部にある。違和感をないがしろにしていない。読者が、「チューニングバリバリでしゃべってくれる人の言うことに騙されてはいけないのかも……」みたいな読み方「も」できるように描いている。そこで「うっ」となる。「うっ、どっちだ?」みたいな感覚になる。
この、「うっ、どっちだ?」というのも、たぶんブルーピリオドの裏テーマのひとつだ。「若さ」が選択をするときのこと。あるいは、「若さ」が自分の人生を「選択のくりかえしだ」と感じてしまっていること。実際には、本当は、二択や三択でビシッと決まるような、ギャルゲーの選択肢的な場面なんてほとんどないのだが、「若さ」はいつも、過去を何度も振り返りながら、あとで振り返って見ると立ち上がってくる「選べなかった選択肢」をくり返し考えようとする。
どっちもクソもないのだ。本当は。わりと。
ブルーピリオドは何重にも「うっ」となるマンガだ。基本的には若さを描いているのだが、「若さを振り返りたくなる年齢」で読むと、本当は存在しなかった「後付けの選択肢」を自分の過去にも見出してしまって「うっ」となるので、あるいはこれは中年が読むべきマンガなのかもしれないなと思う。読んで「うっ」となる作品は貴重だ。何の役に立つかという話ではない。「うっ」となるものを摂取するということ。