2022年6月9日木曜日

気が散るままに

でかける前の15分で『エストニア紀行』を少しずつ読んでいる。ちかごろは、日中はもちろんだが夜もなかなか本を読めないので、ここ1週間くらい、朝の読書。


未整理の「脳の床」に散らばったチラシや文庫本のたぐいを足でどける。ぜんぶを片付けることはあきらめている。自分が通れる幅の分だけ、通り道にしておくイメージで、雑然たる脳の一部をその場しのぎ的にならして、そこに大事な本を一冊置いて、座り込んで、読む。

まだ、まわりで思考がざわついている。ざわめく声のひとつひとつに耳を傾けずに、ぜんぶをひとまとまりのノイズにしてしまって、耳の機能を意図的に下げるようにして、あれこれをわすれて本を読む。だんだんノイズは聞こえなくなり、声を発していたあれこれ、ごみごみとした脳のすみずみに生息する動く切り絵のようなものたちが沈黙し、座って本を読むぼくに視線を向ける。ぼくは小さく音読し、紙はこまかく振動する。


何かひとつのメッセージを届けようと思って書かれている本の、9割以上は読む気がしない。1割の読めた本は、ぼくがたまたま欲しかったメッセージを都合良く発信してくれていたもので、でもそれは単なる「かみ合わせの妙」でしかないので、偶然によろこぶ以上のうれしさはない。いつしか未整理の本を愛するようになった。何が言いたいのかわかりづらい、おそらく具体的に何かを言いたいわけではない、あるいは何も言いたいことなどないのかもしれない、そういう本をいつしか選んで読むようになった。ぼくが信頼している本読みたちも、ぼくにはそういう「矢印が絡みあったままの本」を選んで手渡してくれるようになった。書き手が必ずしも「書きたいことがない」と思っているわけではないのだ。そういうのはハナにつく。書きたいことはあるのだ、おそらく、それは言語化されないにしても。しかし書いているうちに混じってしまうのだ。遠くにおいてあこがれるように眺めているもののことを書きたい、しかしちらちらと気が散って周囲に目をやると、遠くのあこがれよりも近くの無名の石のほうが細部まで詳しく見えてしまうので、ついそちらのことを詳細に記載してしまっているような本。



『エストニア紀行』にはおそらく書きたいことがちゃんとある。しかしぼくは大枠としてのゲシュタルトをいいなと思うと同時に些細なところに何度もひっかかっていて、それがとても楽しい読書である。ニットのワンピースをくるくるとまるめてトランクに入れておくと便利なのだそうだ。