2022年6月6日月曜日

病理の話(663) 信頼されなかったときの思い出話

時期も場所も明かせないが、かつてこんなことがあった、という話をする。


今ぼくが勤めている病院ではない某所で、「A」という科から提出されたある臓器の病理診断をした。それから1,2か月経ったある日、A科の部長クラスの医者から、ものすごく腰の低い電話がかかってきた。


「先生……誠に申し訳ないんですが……」


からはじまったその電話は、いかにも平身低頭という雰囲気である。電話口で、「これはただごとではないぞ」と身構えた。


「じつは先生に診断して頂いた病理の結果を、当院に外からやってきている『カリスマ医師』が読み、その……いろいろと面倒なことになっております。いや、私たちにも、その医師には頭が上がらないんですが、結局はその……申し上げにくいのですけれども……」


ここまでを聞いて真っ先に疑ったのは、ぼくが「誤診」したのだろうか、ということだ。と言っても、病理診断の良し悪しを臨床医が判断できるわけではない。つまり単純な診断に対する疑問ではなく、もう少し込み入っている問い合わせなのだろう。たとえば、「古い取扱い規約にのっとって報告書を書いてしまった」とか、「現在学会で推奨されている免疫染色をせずに診断を書いた」などの、細かいミス。そういうのは、病理医よりも、臨床医のほうが気づきやすい。


しかし、どうやら電話の続きを聞くとそうではないのである。


「(そのカリスマ医師が)この病理診断はおかしい、間違っている、と言っておりまして……」


予想に反してそのカリスマはぼくの診断そのものを疑っているのだった。プレパラートを直接見ているわけでもないのに、なぜ? と、当時のぼくはわからずにいた。


今なら、わかる。


病理医が標本をみる前に、臨床医はCTやMRI、内視鏡、超音波などの「画像」や、血液検査などの「各種検査」で、患者のことをかなり知った状態になっている。要は、病理診断などせずとも、「臨床医なりの診断」が下されている。臨床医の考えがある状態で行われるのが病理診断であり、その結果はしばしば、臨床医の予想を裏切ったり、期待を超えたりする。つまりは、「ずれる」。


そのずれを許容できないタイプの「カリスマ」だったのだろう。たぶん、自分が事前に下した診断と、患者から採ってきた検体をみたぼくの病理診断とが、合わなかったのだ。


しかし、それにしても、である。


普通は、「事前の予想と違っていたら、自分でその病理医に問い合わせる」のが筋である。


しかしそのカリスマは、わざわざ、「A」科の医師たちの前で、「こいつの病理診断は間違っているぞ!」と騒いでいるようなのだ。


なにをしたいのだろうか? A科の部長は、続けて言った。


「というわけで、先生におかれましては本当に失礼な話なのですけれども、病理を某大学の病理学講座に送って、コンサルテーションをしてもらいたいのですが……そういうことは可能でしょうか?」


ぼくは少し拍子抜けした。これはつまり、「セカンドオピニオン」を求めたいということではないか(セカンドオピニオンは患者だけの権利ではない。主治医と病理医との間でもあり得る関係である)。ならそう言ってくれればいいのに。ぼくは安堵気味に、答えた。


「もちろんです、それはもう、どんどん某大学に意見を求めて下さい」


するとA科の部長は、それだけではない、と断って、(電話だから見えないけど)背中を小さく丸めながらこう付け加えた。


「その……(カリスマは)これからはA科の検体は全部某大学に送りたい、とも言っているのです」


なるほど。それでさっきからこんなに申し訳なさそうな態度だったのか、と、ぼくはようやく話の要点を理解した。

カリスマはぼくに二度と病理診断をしてほしくないということなのである。だから、本来の流れであれば、A科の病理診断は今後もたまにぼくが担当するはずなのだけれど、これからはもう、A科の診断はぼくの元には届かないぞ、というお断りの連絡なのだ。


さすがにぼくは少しがっくりとした。「はい、わかりました。それはもう、主治医の方々が安心して病理診断を依頼できるところと組むのが一番ですので、ぜひそうなさってください」


電話を切り、病理標本を移送する手続きを行って、しばらくうつうつとした毎日を過ごし、いつしか、その悔しさも薄れていった。





だいぶ経ったある日。

くだんの病院の検査技師長から、ぼくあてに荷物が届いた。

開けてみると、そこには、例の「大学にコンサルテーションをお願いしたプレパラート」が入っており、大学病院であらためて診断した結果が同封されていた。

あれやこれやを忘れつつあったぼくは急速に記憶を取り戻しつつ、少し震える手で「コンサルテーション結果」を開いた。



そこには「前病理医の診断と同じです。」からはじまる診断意見文があった。



所見を読む。ぼくの判断とまったく同じであった。大学に所属する2名のサインが手書きで添えられていた。

小さく息をつく。よかった。ぼくは誤診してなかった。そしてすぐ、次の感想が思い浮かぶ。

(あのカリスマはどういう気持ちでこれを読んだのだろうか。)

何がしゃくに障ったのかわからないが、ぼくの病理診断を受け入れられずに、大学へのセカンドオピニオンを求め、その結果がぼくと同じだった。さて、そのカリスマは、はいそうですか、では私が間違っていましたと考えるだろうか?

考えないだろう。きっと。

慎重さを来すためにセカンドオピニオンを求めただけならば、結果は受け入れると思う。しかし、どうも、あのときの電話の雰囲気だと、カリスマは「慎重のために」セカンドオピニオンを頼んだわけではない。

ぼくという病理医「ごとき」によって、自分の臨床診断が覆されたことが許せなかったのではないか。

ぼくという「ザコ病理医」が間違っていることをコンサルテーションによって証明し、大学でなければ間違うような病気を、自分は臨床的にばっちり診断できるというお墨付き――それはおそらく、「プロフェッショナル仕事の流儀」とか「情熱大陸」とかで語られるようなエピソードにもなる――を、欲しかったのではないか。

それが手に入らなかった今、そのカリスマは、謙虚になるだろうか?

そうは思わない。

たぶん、よけいに、ひねくれるだろうと思った。



検査技師長からの手紙には、なんと、もう一通のコンサルテーション結果も入っていた。ぼくが知らないうちに、ほかにも、過去の診断に「疑義がある」ということで、コンサルテーションが行われていた。そしてそちらの結果も、

「前病理医の診断と同じです。」

であった。

見返してみると、2例とも、事前の臨床診断と病理診断とが食い違っていた。





端的にぼくからの目線だけでまとめれば、

・失礼なカリスマがいて

・ぼくの診断を疑って、大学の権威にすがって

・でもぼくの診断があってて、カリスマが間違っていた

という、わかりやすい「カタルシスもの」として語ることはできる。

でも、ぼくはどうも、そういう気にはなれなかった。



この2件の裏で、カリスマが、患者に話をしている姿が思い浮かぶ。手術前の説明で自分の見立てを話し、きっと私が考えた通りの病気だが大丈夫だ、まかせなさい、と言っておいて、帰ってきた病理診断が自分の考えと違って、置き所のない怒りに襲われている姿。病理診断報告書を片手に、患者にどう説明すべきかと、ぶつぶつ悩んでいる姿。そして、「この病理医がおかしいので、大学に相談をしますから」と、さらに自分のカリスマ性を誇示するような説明をする姿。最終的に、大学から、「前の病理医に賛成」と書かれた手紙が返ってきたとして、その手紙を……


まるめて、ゴミ箱に捨てる姿。




そもそも診断が難しい病気なのだから仕方がないところもあるにせよ、もしぼくが考えたとおりの人物像であったならば、そのカリスマはずいぶんと、「不機嫌によって周囲を右往左往させた」のではないかと思う。その「周囲」には、A科の部長も、検査技師も、そして、もちろんのことだが患者も含まれる。




いろいろな人に迷惑をかけた原因の一端は、ぼくにある。そもそも、ぼくが「臨床医に尊敬・信頼されるレポート」を書いていれば、このようなことは起こらなかったはずなのだ。

カリスマが自分の診断のまちがいを認めるだけの「説得力」を診断文に込めていれば。

文面で脱帽・納得させていれば。

あるいは、臨床診断がむずかしくて病理診断と食い違う理由を丁寧に解き明かすだけの「やさしさ」が垣間見えれば。

さらに極論すると、ぼくが「大学病院の病理医並みの権威」を持っていれば。

そもそもこんな話しにはならなかったかもしれない。

まあ権威に帰着させるのも違うか。でも、たとえば、「A科の部長」とぼくとがもっと深い信頼関係を結べていれば、カリスマがいかに騒ごうとも、部長が「まあまあ、あの病理医はいい人なので、診断に疑問があるなら直接おたずねになってはいかがでしょう」と取りなしてくれたかもしれないのだ。




このことがあって以来、ぼくの病理診断に対する態度は少し変わった。

「自分の診断が正しいこと」は、大前提。そこは最低限のポイントだ。

その上で、「病理報告書をめぐって、主治医がどんな感情になっているか」にも気を配らないとだめだ、ということを考え始めた。

「ぼくの診断が合っているか否か」とは別の部分で、主治医と患者との関係や、診療の方針が変わってしまうことがある。ずれてしまうことがある。

身にしみた。




セカンドオピニオンの結果を見て肩を落とすカリスマの心に寄り添うことは、当時のぼくにはできなかった。

今なら、できるだろうか。自信はない。世間一般に広まっている「寄り添い」と比べるとずいぶんとドロドロ汚くてめんどくさいなあと思う。でも、やった方がいい……やれたらいい。

医療という難しいものを相手にする者同士、もっと、仲良く、うまくやれたらいい。あれ以来のぼくはときどきそう考えている。