「たたらじ」というYouTubeラジオを聴いていた(この回 https://youtu.be/Sv4qkoWcIR0 )。冒頭のられられられ~んで数人の心が折れるとは思うが、だまされたと思ってそのまま聴いてほしい、必ずおもしろい。我々がやっているポッドキャスト「いんよう!」が理系メガネで世の中を3D視するようなラジオだとすると、たたらじは世のカーテンのひだの裏に言語ドローンで入り込むラジオである。作詞家・シンガーソングライターの畑亜貴さんと芸人サンキュータツオさんはどちらも言語受容体が過剰発現している人類のバリアントで、天変地異によって人類が滅びるときにはおそらくお二人とも普通に死ぬと思うが、天変地異ではなく人類に依る理由で人類が滅びるときにはお二人は他者とは違う視座と言語センスによってなんとかして生き残るのではないかと思う。
上記で紹介した回がほかの回とくらべて特におもしろいというわけではなくて、単にこのブログを書いている時点での最新回なのだけれど、最新回をひとまず勧めておけば間違いないというくらい、毎回クオリティが安定している。この回では、冒頭のハイタッチのくだりなどで一笑いし、ご飯に塩ごま油をかけるくだりやピーマンとウインナーを炒める代わりにキャベツを用いるか問題にいつしか没頭してしまうのだけれども、その後、リスナーからのとあるおたよりに対し、「リスナーの感想によって自分のやりたかったことが言語化される」という現象に言及したくだりでぼくは他にやっていた仕事の手が止まってしまった。
たしかにそういうことがある、と、時を止めて思索をフル回転させなければいけないくらいに受け止めたのである。
世はクソリプ全盛時代で、SNSの功罪のうち罪の部分では必ず「何かをすると外野から余計な人が飛びかかってくるので無視しましょう」と対策が講じられていたりもする。ぼく自身、なぜこいつは背景の文脈を知ろうともせずに瞬間的に一部を切り抜いて自分なりの解釈をごり押ししてくるのかと不思議に思うこともある。しかし、一方で、自分をすみずみまで見るには鏡を少なくとも2枚用いなければいけないように、自分自身や自分の行動を自分自身ですべて言語化するというのは無理であり、他者のリアクションがあってはじめて見えてくる自分があり、まれに、「自分で何がやりたかったかわからないままやっていたこと」の原理を他者から指摘される、などというミラクルが起こることもある。発信者がいて、配信スタッフがいて、送られてくるお便りのどれを読むかを決める人がいて、読む順番があって、読むための抜粋もあって……といろいろ制限と縮約をかけているにせよ、リスナーからのお便りによって音楽家が「なるほど私はたしかにそういう曲を作りたかったのだ」と気づく瞬間というのは真に尊い。至高の発信者・畑亜貴でなくとも、我々もそれに似た至福を味わいたいと思ったらやはり外界との連絡を絶ってはいけないなあと考え込んだ。世間との過剰な接続を定期的に切断しつつも、形状やサイズに流動性のある窓をいくつか解放しておくことの必要性。
現在はクソリプ全盛時代であると同時に、過去最高に「言語化全盛時代」でもある。無論、発信に対するハードルが下がったためであり、受信数が爆増して他者の言語に触れる機会が増えたことも大きいだろう。もっとも、発信に用いるのは言語だけではない。踊ったり着飾ったり裸をさらしたりといった身体性に依って発信することもできるし、歌ったり絵を描いたりという非言語的な表現に依って発信することも可能ではある。ただ、TikTokが踊るツールだと思っているのが中年だけで実際には短時間のトークが花盛りとなっているのを見てもわかるように、自分の中から湧き出てくるものを表現する上でもっともカロリーが少なくてすむのが一般的には肉声で発話することであるから、やはり主役は言語なのだろう。ことあるごとに「どう言葉にしたらいいか」が命題として脳内液晶パネルに表示されるのも当然のこと。
その上で、「たたらじ」を聴いて思うこと、言語化とは「何かを完璧に言語化した瞬間が気持ちいい」という一面だけで駆動されるわけではなくて、「何かを言語化していく過程で、それまでもやもやしていたものの正体が一回り大きなもやもやによって支えられていることがわかる」ときの脊椎をなめられるような畏怖に近いぞわっとした何か、あるいは、「コアの部分を言語化したと思ったらそこから伸びる無数の触手的何かを言語化しなければいけないことに気づいた」ときの顔がフラッシュする感覚、つまりはそう、「うまく言えた! けど、となると……」の、「となると」の部分に、アドレナリンを放出する何かがあるのではないか、ということである。
自己啓発本的なブログを読んでいると「言語化しましょう」という結論がエゴのタツノコの如く湧き出てくるのだが(タツノコプロは自分勝手な作風の名作アニメをたくさん世に出してくださいました)、うわー言語化できたーと喜んでいる「発信者」はたいがい言語化し終えることはない、というか、何かをひとつ言語にするとそれをとっかかりにしてまた次の「言語化したいもやもや」が出てこなければ嘘である。それはきっと植物の生長みたいなもので、すでに刻まれた年輪の部分には生きている細胞はほとんどいなくて最外殻の部分にこそアクティブでバイアブルな細胞たちが複雑に増殖をたくらんでいる状態。言語化という行為は「これだけやってもまだ言い表せない!」と、言語化できるかできないかのキワの部分に向き合うときにようやく生命の脈動を喚起するものだ。つまりは感情言語化研究所というものがあったとしたらその研究活動は大学機関のように無限に終わることはないのである。もっと大学に予算を。