某犬が某イベントで「(仕事中に)怒ってもいいことなんてひとつもないですからね」と言っていて、まったく同意見だ。これは、「怒らないほうがいい」という比較・選択の話ではなく、「怒ってはいけない」という禁止・禁忌の話である。職場では絶対に怒らない方がいい、と言っていい。例外はあるだろうが、それを言ってしまえば万物に例外はあるのでいちいち書いていられない。
部下あるいは同僚に対して、ときには自分より上の人間に対しても、仕事で何か困ったことをしている人に、「なんでだ!」と怒りをぶつけてモノゴトが改善することは絶対にない。「なんでだ(怒)! こうしなさい」とか、「なにをやっているんだ(怒)! ああしなさい」と言いたくなるとき、序盤の「なんでだ(怒)」の部分は、状況をよくすることに何も寄与していない。怒られたほうは、(怒)のあとにある「こうしなさい」「ああしなさい」を参考に自分を修正していくしかないからだ。むしろ、(怒)という感情が先行することで、受け手の側はまず(怒られた)という感情で心が満たされてしまうから、後半の「こうしなさい」「ああしなさい」が入ってくる余力がなくなる。
「しかし何度言ってもワカラナイ人には怒るしかないだろう」という反論が来そうだが、そもそも何度言ってもわからない人がいたとしたら、怒ったところでわかってはもらえない。その枠組みでは教え方が足りていないか、教わり力が足りていないか、その両方が足りていないか、とにかく不足しているからだ。「わかる」「わからない」というのは教育の問題であり、理解・コミュニケーションの話でもある。「わからない」ならさらに効果的な教育手法を用いなければいけない。なのに、そこで怒りという強い攻撃性を持つ伝達手段を用いてしまうというのは、単純に選択ミスだ。怒りでディスコミュニケーションが解決できるというのは錯覚に過ぎない。
「何度言ってもワカラナイ人には怒るしかないだろう」を詳述すると、おそらくこうなる。
「何度言ってもワカラナイ人には(私の力ではどうやってもわからせることができないから、その人を教育することはあきらめるしかないし、ムカムカと腹が立つからせめて)怒る(ことで憂さ晴らしをする)しかないだろう」
言ってもわからないから怒るしかない、という言葉は、ぜんぜん論理的じゃない。
だからぼくはツイッターではもう怒らない。ぼくが怒るのは基本的に、感情を受け止めてもらえそうだなとぼくが信頼して、甘えている人だけだ。そんなの、近しい家族くらいしかいない。しかし家族には怒りたくない、なぜなら家族をいやな気分にさせてもいいことはないからだ。こうして「怒る」という行動を用いるタイミングはどんどん減っていく。
世の中には、怒りという感情には人の目を集める効果があるのだから利用すべきだ、とか、怒りを通じてしかコミュニケーションできない人もいる、などの理由で怒りを武器として選択する人たちもいる。そのような「計算尽くの怒り」は果たして上品だろうかという話で、まあ、下品なのだけれど、人間はたまに下品でいたいという謎の欲望を持っている。
ついでに言うと、「計算して怒っている」と自称する人をしばらく観察していると間違いなく惰性で怒っている。単に情動が失禁してしまっているだけなんてこともよく見られる。いつも怒ってばかりいる人は脳の弁がガバガバになってしまっている。パッキンを買い換えたほうがいい。
感情をせき止めずにリアルタイムで垂れ流しにする不随意な行為。言ってみれば外界からの刺激に対して脊髄反射で手足をぴょこんと動かしているのと一緒だ。食虫植物が葉っぱを開いたり閉じたりするのと違いがない。人間が脳を発達させることで得た能力のひとつに、「刺激にすぐに反応せず、過去の記憶と照らし合わせたり、複数の情報と掛け合わせたりすることで、脳内に刺激をプールして、よりよい行動を選択する」というものがある。つまりしょっちゅう怒っている人というのは脳が機能しなくなっているのだと思う。全部がポンコツにならなくても一部が機能しないということはよくある。電子機器といっしょだ。なまじほかがちゃんと機能していると信じている人は、自分が怒りまくっていることをエラーだとは考えない、でもそれ、じつは脳の機能という意味ではバグっている。
さて、自分の話に引き戻すと、ぼく自身もまだまだ怒りをあらわにすることはあり、あとから振り返って「このバグは修正しないといかんなあ」という後悔に苛まれる。できれば家族には怒らない自分でいたいがうっかり職場でやらかしそうになることもある。ここで自らの不快をきちんと表明しておかないといずれまた同じことをくり返されても困る、みたいな「うそくさい魅力をはらんだストーリー」に飲み込まれてしまうことがあるのだ。冷静に振り返ってみると、「不快を表明する」ことと「怒る」ことはイコールではないのだけれど。