患者が病気によって亡くなったあと、主治医と患者家族が話しあって、病理解剖を行うことがある。
病理解剖を執刀するのは病理医だ。主要な内臓をとりだして、それらを肉眼的にくまなく検索し、勘所についてはプレパラートを作成して細かく顕微鏡で見る。プレパラートには免疫染色などの詳細な検査を追加することも可能。
つまり……病理解剖をする理由をまとめると、
・病理医が(いろいろなやりかたで)みる
ためということになる……。
いや!
そうではないのだ!
最近気づいたのだが、
病理解剖の「いっちばん特殊な部分」は、「病理医がみる」ところにあるのだけれど、「いっちばん大事な部分」は、たぶんそこじゃない。
「病理医がみる」ではなくて、
「病理医もみる」というのが、病理解剖の最大のメリットなのである。ここを詳しく説明する。
病理解剖が終わって、ご遺体をご家族のもとにお返ししたあと(傷をきれいに縫い、洗って、包帯を巻き、着物を着ていただき、エンバーミングした状態でお返しする)、病理医はかなり長い時間をかけて臓器の検索を行う。切り出し、プレパラート作成、検鏡……。そして、報告書をしたためる。
この報告書が出たあとがポイントだ。
報告書を受け取った主治医は、病理医と、そして「その患者にこれまでかかわった人たち」とを集める。
なんなら、「かかわってないけど病院内のほかの部門でがんばっている医者たち」も集めることがある。
とにかく多くのプロを集めて、病理医が検索した病理解剖の結果をもとに、カンファレンスを行う。
カンファレンスでは、「患者の生前に起こったこと」を主治医がことこまかにまとめて発表する。
いつから病気に悩んでいて、どのタイミングで診断がつき、どのような治療をして、それによって病気がどのように良くなったり悪くなったりしたか、途中で何かの副作用に悩まされることはあったか、メインの病気以外のトラブルはなかったか……そして、どのように亡くなったか。
これをうけて、病理医が、解剖によって得られた知見を発表する。すでに報告書に文章でまとめてはいるけれど、豊富に写真を提示しながらきちんと口頭でプレゼンをすると、伝わる深さはまた別次元のものとなる。
主治医と病理医が、それぞれ違う角度から患者をみまくった結果を、カンファレンスの列席者が、「岡目八目」の気分で検討し、「そこではこういうことも考えられるのではないか」「病理で他にこういうことはわからなかったのか」などと質問をする。
そう、病理解剖は、解剖しておわりではないのだ。「解剖まですることになった人」を、プロの医療者たちが、よってたかって何度も深掘りして考えていく、そのきっかけが「解剖」という特殊手技であるだけのことなのだ。
カンファなき病理解剖の意義は半減する。まあ、半分しかなくてもけっこういろんなことがわかるので、主治医が忙しいとか、病理医が足りないという状況では、半減していようがなお衰えない意義を求めて病理解剖をやったりするのだが。
カンファがあると、病理解剖に至った患者のあれこれは、非常に深く検討されることになる。その結果は、この先「ある患者」と同じ病気になる人への対処法として結実することもあるし、医療者たちにとっての大きな教育の材料ともなるし、さらに言えば、
「患者の経過の最中、主治医、スタッフ、そして家族がどうにも腑に落ちなかった部分への答え」
をあきらかにしていくことにつながる。
A病ならばB薬、のように、診断と治療が一対一対応していたならばどれだけ楽だったろう。
医療は決して一本道ではない。だから、振り返って見てみると、あそこではなぜこのような変化が起こったのか、あのとき患者はなぜ妙に良くなったのか、あのときあの治療はなぜあまり効かなかったのか、といった疑問がいっぱいあるものだ。
そういった疑問を、「病理医による解剖」だけで解き明かすのは、実際、難しい。しかし、「解剖までして、濃厚なカンファをみんなでやる」ことまでたどり着けば……かなりのことが見えてくる。
これが病理解剖の効能。これが病理医が病院にいる大きな意味なのだ。