胃カメラや大腸カメラによって、患者の胃や腸の中をぐるぐる見回す検査がある。そこに何か病気らしいものがあるとき、スコープの先端からマジックハンド的な鉗子(かんし)を伸ばして、粘膜の表面をちょんとつまんで採ってくることができる。
これを生検(せいけん)という。なぜ生きるという漢字を使うかというと、biopsy(バイオプシー)の和訳だからだ。Bioを「生」と翻訳している。バイオロジー=生理学、おバイオハザード=お生危険。
bioは「生きる」。では、psyの部分は何か? 調べてみるとこれはpsyではなく「opsy」らしい。現代英語のoptical(オプティカル、視覚的な)などにも通じる、「見る」という意味である。
すなわちbio-opsyで「生きているものを見る」という意味になっているようだ。なるほど、「患者が生きているうちに見る」という意味が込められていたんだね。納得。
病理診断学はもともと、解剖検査からスタートしている。今から150年以上前は、生検をされることはなく、というか、そもそも人体のことが今よりぜんぜんわかっていなかったから、とにかく人体の秘密を解き明かすためには解剖が必要だった。Biopsyなんてやってもわからなかったころの話。
解剖検査のことをAutopsy(オートプシー)と呼ぶ。ではAuto-opsyの「auto」とは何か?
じつはオートバイのオートといっしょである。オートバイクとは(エンジンで)自走する自転車の意味。つまりオートには、「自分」という意味がある。セルフ、ともちょっと似ているかも。
香川県ではあちこちに「セルフうどん」の看板が立っている。あれを「オートうどん」としてもわりと近い意味に……ならない気もするが……ま、大枠としては、そういうことだ。
解剖が「自分を見る」という意味だというのが、考えてみると少し意外である。いやいや自分のことを自分で解剖はできないでしょう。ブラック・ジャックじゃあるまいし。ブラック・ジャックは自分を手術こそできたが、解剖はしてない(当たり前である)。
では「自分を見る」というのはどういう意味なのか?
たぶん、「人間が自分たちの体のことを知るために、自分自身のありようをそこに見る」という意味がこめられているんだろうな。動物や魚を狩って、それをさばいたときに内臓や筋肉を目にするように、人間自身のこともきちんと見よう、自分たちのことを見極めよう、という意味。それがオートプシーの語源なのではないかと思う。
で、自分を見るにしても、最初は、死んだ状態でしか調べられなかった。麻酔があったわけではないし、どこかを小さく切り取ってくる外科手術の技術もなかった。しかし、医学の技術が進歩して、患者を生かしたまま、死ぬ前に、「今まさに生きている患者のことを見る」という意味での「バイオプシー(生きたものを見る)」が、あとから爆誕したのだ。
ぼくが昔から鼻で笑ってきた警句に以下のようなものがある。
内科医は何でも知っているが、何もできない。
外科医は何でもできるが、何も知らない。
精神科医は何も知らないし、何もできない。
病理医は何でも知っているし何でもできるが、遅すぎる。
これを取り上げて、「病理解剖なんかしても患者はもう亡くなっているんだから、遅すぎるよねー」みたいなことを言う人がたまにいる。医療者にすらいる。
いやいや、それ、オートプシーの時代の話でしょ。150年前だぞ。
バイオプシーは生きている間に患者を見るのだ。遅いことなんかない。
……じゃあ、病理解剖が「遅すぎる手技」なのかというと、じつはそうでもないんだけど、その話はまたいずれ。