「気が散ることの効能」はおそらくあるだろう、という話をする。
われわれ人類には、おそらくけっこうな幅のバリエーションがある。同じヒトと言ってもわりと違う。
たとえば、
「集中して何かをすることができる人」
と
「どうしてもひとつのことに集中できない人」
とがいる。
両方いる。
この世の中に、両方いるということは、すなわち、「どちらかが社会生活上圧倒的に不利なことはなかった」ということなのだと思う。
仮に、どちらかがすごく不利だとしたら、適者生存の過程で淘汰されてきただろう。
「両方いる」ということはつまり、正味で見てみると、「どちらが有利とは言えなかった」からなのだろうな、ということを考える。
とはいえ、この世は「集中力勝負」なのでは? という疑念がいまだに拭えない。
学歴にしても、クリエイティブにしても、あるときにガーッと集中して成果をあげられればよし、途中で気が散ってしまえばそれまで、みたいな話ばかりを目にする。
小説でもマンガでもそうだ。
主人公はたいてい、「何かに没頭する者」として描かれる。最初は気が散っていたとしても、話の流れのどこかでは何かに熱中し、何かを克服していくのだ……。
そして、そのようなストーリーが頭に擦り込まれるから、なおさら、ぼくは「この世は集力勝負なのでは?」という錯覚に陥っていく。
気が散ることの効能はおそらくある。それはたとえば、「何かに集中するというのは、そのまわりにある繊細なニュアンスを無視することだ」というたとえ話で語ってもいいし、考え事をしながら歩いていて電柱にぶつかった、というような実例で語ってもいい。
学習についても同じなのである。ごく短い期間で、大人が決めたカリキュラムに沿って、必要とされるものだけを学ぶときには集中は便利だし、そうやって社会のある程度決まったレールに自分をフィックスさせるといいことがあると、小さい頃から社会に教え込まれてきたからこそそれが一番だと思っているだけで、実際には、「学校の教育はそれはそれとして、ときどき関係ない部分に気を散らしていくこと」ができないと、思考の範囲がどんどん狭く、画一的になっていくばかり。
欲しいのが金と名声だけならばそれに集中すればよい。
しかし、光景に対して驚くことや、情感をなでまわして違和を愛でること、偶然飛び込んできたものを取り込んで自分の境界をぼんやりさせることなどは、集中していては、できない。
気が散る人間を大事にすべきだ。気が散ることは誰あろう社会にとって大事なムーブである。集中の跳梁を許すな。集中ばかりに金を投じるな。
ぼくが今ベストセラー作家だったら、「散漫力」という新書を書いて一儲けするだろう。気もそぞろになりながら、「はじめに」を書き終わったあとに旅に出てしまうくらいに気が散ったままの状態で、「注意が散漫でありつづけることの効能」について、語り倒すのだ、大いに脱線しながら。編集者は胃に穴が空くかもしれないがそれは集中しすぎることによる副作用なのである。