たまに講演のプレゼンや論文のプレスリリースなどをツイートすると、「本名出てますけれど大丈夫ですか?」というご心配をいただくことがある。「病理医ヤンデルでググれば本名くらいすぐ出てくるので大丈夫です」と答える。
もっとも、ぼくがTwitterをはじめた11年前とは違い、いまは「ググることすら面倒」な時代なのかもしれない。流れてきた断片的な情報だけで判断することに誰もが慣れきっている。
学者や研究者などが、記者会見やインタビュー記事などで「自分の発言を切り取られた」と言って怒るのがかつては風物詩だった。でもちかごろは、切り取られるのが当たり前だということが知れ渡ったためか、かえってそのような「切り取りによる悪」みたいな言質をTwitterで見る機会が減ったように思う。
今、自分の発言を恣意的に削られて改竄されたと怒っている人達の多くは、そういう切り取りがなくても何か別の理由を見つけて怒っているような人ばかりだ。切り取られるのがデフォ。一部分でしか語られないのが前提。
そのことをとっくに学習しているはずなのに、あえてまだ知らないふりをして、怒っている人たち。
昨日、自分の学術的発言の一部をマスコミが切り取ったと激怒していた人が、今日、芸能ニュースを見て「あの芸能人はむかしからおかしいと思っていた」と、情報の一部だけを見て知った気になる。
誰もがググらない。
深意に興味がない。
それでいい気がする。
それに備えるほうがいい。
ぼくの自宅をつきとめるために後を付けたストーカーが先日逮捕された。
部分しか見ていないのに全部見た気になっている愚。
かなしい笑い話である。
ぼくをググったところでそれはぼくの全部ではない。
じつはググっても「浅い愚」が「深い愚」になるだけなのかもしれない。
一部しか伝わらないことを前提として動く。ただしそこには全力をかける必要がある。「どうせ伝わんねぇから」という気分だけ伝えてしまってはいけない。そういう広告、そういう人間を見ることがあるが、みな、くちびるの周りに妙に脂分が多い、代謝の狂った表情をしている。ああはなりたくない。「ああ」というのもまた一部分でしかないのだけれど。