病理診断は「客観的でない」と考える人がいる。
わりとごもっともなご指摘だ。
報告書の字面だけ読んでいると、「核が大きいからおかしい」とか、「細胞の異型が強いから異常だ」のように、大きい小さい、強い弱いといった比較で診断がなされていることも多いから、余計にそう感じる。
少なくとも「何と比べて大きい」とか「何と比較して強い」と言わないとだめだよね。
まあ病理医は無意識に対照を置いて比較しているのだけれど、報告書でそこを省略していることも多いので、かなり主観的に見えてしまいがちである。
できるだけ客観的に、病気を評価できたほうがいい。それは間違いないことだ。
ただし、診断の主観性というものは、病理診断にかぎらず、普遍的につきまとう本質でもある。
いやそんなことないだろ、たとえばPCR検査では陽性(+)と陰性(-)とがゼロイチで決まるじゃないか! などと噛みついてくる人もいるかもしれないが。……いや、その、(+)とか(-)を決めるにあたっても、じつはグレーゾーンがあり、「閾値の設定」があって、完全に客観的にビタッと確定するというものではない。検査の結果の字面だけ見ているとあたかもビシッと一義に決まっているように見えるけどね。ほんとうはもうすこしあいまいなのだ。そのへんは臨床検査医学をきちんと学ばないと実感できないことでもある。
そもそもの話をすると、患者が病院にくるきっかけだって「主観」で決まっている。どこかが痛い、しびれる、だるいというのは、結局のところ客観視するのが難しいファクターだ。本人がつらいと言ったらそれを尊重するのが医療なのだけれども、はたからみて「あーこの人は10段階でいうところの4段階目の痛みを訴えているなあ。」なんて評価することはできないのである。ドラクエのようにHPが数字で見えたら楽かもしれないが、現実の人間は、「HPが200あってもMPがゼロで、しかも職業が魔法使いなので詰んでいる」みたいなことがままあるし、往々にして、HPもMPもカウントそのものは隠されていて誰にも読めないのである。
江戸のころから医療といえば「さじ加減」と言われる。加減の度合いがあまりにはげしいと、患者はふるえあがるだろう。自分が選んだ病院によって治療がうまくいったりいかなかったりしたらたまらない。「医者ガチャ」なんて引いていられないのだ。だから、医療者はいつだって「エビデンス」を大事にして、なるべく客観的な指標をもちいて医療をたいらにならす。どこのだれがいつどのように病院にかかっても、同じクオリティで結果が期待できるように。
しかし、ざんこくなことだが、「さじ加減」は今でも存在している。ただしどの病気にどれだけ薬を入れるかといった「大枠の部分」ではない。さじ加減が存在するのは、たとえば、
「この患者さん、不安そうだな、まあこの薬を2週間飲めばそれでだいたいうまくいくとは思うんだけど、いちおう2週間後にもういちど病院に来てもらって、どうなったか話を聞いた方がいいかもしれないな。本当は2週間後にここに来ても来なくても、病気自体はコントロールできそうだけど、患者さんの不安を解消するためには、もう一度来てもらおう」
みたいな部分なのである。患者の主観と医者の主観とが、「主観同士でよろしくやっている」状態になることで、医療の中の、科学だけでは説明しきれない実学の部分が、なんとなくうまく回るようになったりするのだ。やっぱり医療の一部は今でもさじ加減が大切で、客観だけの冷たい診療ではうまくいかないのであった。
と、病理診断からはじめた話をいつしか医療全体に広げまくってしまったが、それはともかくとして、「病理診断の客観性」についてである。ここはなるべく客観的に担保したほうが、多くの人に不安を与えなくて済む(不安とはまた主観的な話だが)。
そこで、病理診断を客観的に行うための「コツ」みたいなものを最後に書いておく。コツというか具体的なライフハックに近いかな。
病理診断をする際には、プレパラート内の「ここぞ!」という視野を写真に撮る。そして、その写真を、病理医が100人集まる会場に持っていって、プロジェクタでスクリーンに投影して、「ここにこういう像があるから、私はこう診断しました!」と言えるかどうかを自問自答する。
「あ、言えるな」と思ったらその診断はだいぶ客観的だ。
「うーん、これで説得しきれるかなあ」と思ったらその診断はかなり主観的だ。
……え、それだけ? と思うかもしれないがこれってかなり使いやすい。自分が場面と時間とをずらしてその標本に向き合い、主治医以外の専門家に説明してもなお、診断がきちっと確定しているなら、それは「時間を超えた客観性」があり、「場面を超えた客観性」があると考えるのである。えーそれって逃げじゃないの? 違う、逃げじゃない、というかむしろ、これってマジで大変なことなのだ。違うTPOに暮らす自分を説得できないような診断が他人を説得できるわけがあるまい。そうやって、自分に厳しくしておいて、客観性を具体的に高めていくのである。