2022年6月21日火曜日

天職と本道

メインストリームを外れていく感覚を味わっている。いやいやお前はもともと「本道」にはいないだろう、とつっこまれそうだが、世の中のメインかどうかではない。自分の中にある道の話をしている。


今年44歳になるぼくは医師免許をとってから足かけ20年。これまで心の目が向く方にふらふらと歩いてきた。それは心許ないダウジングのような作業で、どっちに歩いたら自分がいちばんワクワクできるのかという基準と言えば格好はつくが、現実には両手に持ったナゾの金属が開くか開かないかに自らの進路を委ねてきたような、これに本当に従って良いのかという疑念と常に戦わかねればならない不安な微調整のくり返しであった。

しかし幸か不幸かぼくのダウジングは打率2割程度ではあるがそこそこ役に立った。これでよいのかと首を捻った病理診断科への就職も今となっては天職としか言いようがないし、真夜中に根を詰めて家族を失ってまで続けた臨床画像・病理対比の仕事も確実に自分の歩ける範囲を広げてはくれた。後悔も膨大だがきっとどちらに向かって歩いてもぼくは後悔しただろう。それはしょうがない、過去に戻ってもあきらめる気にはならないが、今となってはそういうものだったと達観するしかなかった部分もある。

そうやって歩いてきた道のりは確実に「ぼくのメインストリーム」であった。たしかにここを歩いているのはぼくであるという、不安と葛藤、そして決意のようなものがいつもミルフィーユのように折り重なってぼくと併走した。

ただ、近頃のぼくは、まだもう少し歩けるかも知れないと思える自分の本道を、外れるではないにしろ、少し歩むスピードを落として、ときに道ばたに呆然と立ち尽くして、あるいは路傍のベンチに腰を下ろして少し遠くを見たりしている。

理由のひとつは、歩き続ける足腰がやられてきたからだ。まだ早い、と正直思った。

しかし、この道を他に歩く人もいるんだということを思うと、まだ歩けるまだ歩けるとここから20年がんばるのも捨てがたいけれども、そろそろ道の脇にそれて道を管理するほうの仕事に回ってもいいのかもしれないという気持ちが強くなってきて、抑えがたくなった。

サポートこそがぼくの本当の天職なのではないかという思いがある。


ぼくはかつて病理医を軍師にたとえ、「戦場で敵を破る将軍に指令を与え、直接自分で武器を持って戦うわけではないが、知恵を以て戦場を支配する仕事」だとうそぶいたことがある。そういうのがぼくが本当にやりたい仕事なのだと自分を納得させてきた。しかし今になって思うこと、自分の本来の「気性」が必ずしも「軍師」すら望んでいないということ。

ぼくはおそらく道の整備が好きなのだ。若い頃は、自分の仕事が「縁の下の力持ちだね」と言われてしまうことに多少の違和感を持っていて、「バカ言うな、縁の下じゃない、ぼくらがいるのは総司令室だ」と虚勢を張ってきたけれど、本来のぼくは縁の下のような秘密基地スペースが大好きで、つまりは、みんなが言っていた通りだった。力持ちかどうかはともかくとして、ぼくは縁の下が落ち着くのだ。


今の居場所は「自分が歩こうと思ってきた本道」ではない。いや、居場所はそこでいいのだkれど、歩くのは誰かにまかせようかなという気持ちになりつつある。この道が一番いいと思った気持ちに嘘はない。「この道が最高だから、さあ、いろんな人はここを通ってくれ! ぼくはこの道が最高だと思うけれど自分ではこれ以上歩かずにここを整備するよ」と、神社の参道を掃き清めるようなことをやりはじめている。手にしっくりくるのだ。ほうきが。