病理医って、あまり知られていないかもですけど、ときどき「解剖」をやります。
解剖って何をやるの、とか、何のためにやるの、みたいな記事をよく見ます。そこにはたいてい、「死因をあきらかにする」とか、「まれな病態を解明する」みたいなことが書いてある。その通りです。あってる。
ただし、実際の現場で行われている病理解剖はもっとはるかに豊かな意味を持つんですよ。今日はそういう話をする。
解剖は、「なんかちょっと診療がずれていったんだよなあ」の「ズレ」を補正するものである。
たとえば、ある病気だと診断が付きます。それは「がん」だったり、心臓・血管にかんするものだったり、脳神経にかかわるものだったり、ほかにもいろいろ、いっぱい。
「診断が付く」と、そこで治療法がぜんぶベルトコンベアーみたいに運ばれてきて、あとはなんか自動的に、ペッパー君が配膳するみたいに医療が進んでいくかというと、ぜんぜんそんなことはないわけ。
この薬は効くと言われてるよ~(かの有名な「エビデンス」があるよ)ということで、ある病気にある薬を使ったとしますね。
すると、その薬の効き方って、じつは毎回違うんです。めちゃくちゃしっくり効く(言い方)こともあるし、効きはいいんだけど副作用がけっこう強いなんてこともある。
なんかむくんでくるんですけど、とか。肌がかゆくなったわ、とかね。
そのつど、医療者と患者は相談をして、この薬よく効いてますけど少し減らしましょうかとか、似ているけど少しメカニズムが違う別の薬を試してみましょうか、とか、「副作用はそこそこつらいけどがまんできるからやってみたい」というなら、副作用を減らすためのコツをお教えしますので、このまま飲み続けてみましょうか、とか、そういうことをずっとやっていく。
「エビデンスを持ってきて何かをしました」で臨床は終わらないんです。昔、「恋愛はキスでは終わらないのよ」みたいな名言がありましたけどそれと似ています。「医療はエビデンス通りの処方では終わらない」のですね。すみません似てはいませんでしたけどね。
「その先」がある。
ずっと調整し続けることが必要。
医療現場でこのように、さまざまな「現在進行形の治療」が行われて、患者と医療者がずっと二人三脚でやっていくわけですが、そこで、どうやっても調整がうまくいかないことはある。
普通、この病気ならば、あの薬もこの薬も効くことが多いのに、今回に限ってはぜんぜん効きが良くないなあ、とか。
これまで順調だったのに急に具合が悪くなってしまった、医療者も患者もまるで予測できなかった、とか。
ときには、患者も医療者も診療の進み方にはすごく納得しているんだけど、検査のこの結果だけ、どう解釈したらいいかわからないまま、長年わりと無事にようすを見ている病気、なんてのもあるのです。
つまりはこう……ズレとか欠落みたいなものが、現場にはいっぱい存在する。
そして患者さんが亡くなるとする。そのとき、残された医療者は、生前の患者さんの意志を継ぐ意味でも、未来の患者さんに対してまた似たようなことが起こったときにどうしようかと考える意味でも、「ズレたこと、わからなかったこと、見えなかったこと」をそのままにしておきたくないんです。
だから病理解剖をする。
患者さんが生きている間、医療者は、患者の体内で起こっていることを、あたかも壁に耳を当ててとなりの部屋の音を聴くようなイメージで探ろうとします。臓器を直接手に取って見るのではなくて(それをやったら死んじゃう)、検査データや画像データ、診察の結果、そして何より患者さん自身のうったえをよく聞く。間接的に見て、間接的に触るのです。
それでわからなかったことを、解剖で深掘りする。臓器を直接手に取って見る。細胞を顕微鏡で拡大する。遺伝子やタンパク質の異常を深く調べる。壁を破って答え合わせをする。
このことを「死因をあきらかにする」とか、「まれな病態を解明する」と、ひごろは近似して説明しています。でも本当は、もう少し細かい疑問にも答えようとしている。
「なぜこの患者さんは生前、腎機能が、説明の付かないレベルでずっと悪かったのだろう?」
「なぜこのがんは、珍しい場所に転移したのだろう?」
「なぜこの病気は、治療にまるで反応しなかったのだろう?」
さてとまだまだ言いたいことはあるけれど、最後に「あるあるのエピソード」をひとつ。
病理解剖をしたからと言って何がそんなにわかるの? いまどき、CTもMRIも強力だから、わざわざ臓器を直接手に取らなくてもいいじゃん。みたいなことを言う人がいっぱいいますし、じつはぼくもときどきそう思っています。
ただ、ぼくらが解剖をやるとき、「非常によくある」のは……。
解剖がはじまって、臓器を取り出すためにぼくが手を動かしている最中は、主治医といっしょに患者さんのあれこれを振り返るトークをします。手術中の医者が周りと会話するみたいなかんじで。
この、トークの段階で、大きな疑問や小さな疑問が次々と解決していく、ってことがあります。まだ臓器を見る前に、会話だけで。
臓器を取り出し終わるころには、臨床医も病理医も、なんというか、「一段進んだステージ」にたどり着いていることがある。本当によくある。
そしてぼくらはこんな会話をする。
「ああ、生前にここまで考えておきたかったなあ」
「いえ、でもそれは、先ほどもお話ししたように、生きているうちはどうやってもわからないことなんですよ」
「たしかになあ……だとしたら、生きているうちに、この考えにたどり着くためには、いったい何を検査すれば良かっただろう?」
「それを知るためにも、今から臓器を実際に見て、顕微鏡でも見て、体の中で本当に起こっていたことをより細かく明らかにしてから、後日、じっくりとカンファレンスをしましょう」
「そうしましょう」
何が言いたいかというと。
「病理解剖の一番のメリット」についてなんですけど。
「普段ちがう仕事をしている病理医という職業人が、主治医と患者の二人三脚の様子を、別の角度から俯瞰してコメントしようとすること自体に意味がある」
と思うんですよね。
会話するだけ? なら解剖しなくていいじゃん、会議でいいじゃん、と思いますか? いやあ、違うんですよ。臨場感がぜんぜん違う。言語化が届かないレベルの、「精細な臨床の絵面」を、死んだ後も患者を見るプロである病理医が実際に「診察」して「検索」していく。そうするとまるで見えてくるものが違うんです。
長くなるからこのへんにしときましょう。今日は疲れたね。だから最後に豆知識をどうぞ。
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