人体の中にカビが生えることがある!
と書くとげげっと思ってしまうが、人体の表面にカビが生えるのが水虫なので、ま、中にだってカビくらい生えるよね、と言いたくなってしまう。けれどまあやっぱりカビが生えるのはよくないのだ。
朝から水虫の話もいやなのだが、こういう話は昼でも夜でもいやなものなので、早朝に読んでしまうに限る。
さてカビが生えるとなにがよくないかは本稿の主眼ではないのだけれど、ぶっちゃけてなにが悪いのかという質問に答えると、「カビはただ生えるだけじゃなくてその辺を壊す」のがまずい。人体が秩序をもって作り上げた構造をプチプチ壊すので、やはり放っておくわけにはいかない。
ただ、このカビ、足に生えていれば見てわかるのだけれど(まあ皮膚科医じゃないとわからないことも多いけれど)、食道とか、肺とかに生えている場合、どうやって見ればいいのかという問題が出てくる。
食道だったら胃カメラを入れればまあ見える。けれども「バンジージャンプのときに出川哲郎の頭に取り付けられているタイプのCCDカメラ的な胃カメラ」をもって、食道の粘膜をぐぐっと拡大してみたところで、それがほんとうにカビなのかどうかを判断するのはちょいちょい骨が折れる。
そこで、カビかもしれない部分を、カメラの先端から伸ばしたマジックハンドによってつまんでとってくる。これが「生検」である。
そこにうまくカビがつかまっていれば顕微鏡でわかるだろう、という話だ。
しかし……。
実はカビというのは顕微鏡で見ても直ちにわかるという類のものではないのである。
なんだかゴミみたいに見えることもあるし、別の細胞と勘違いしやすいシチュエーションというのもある。食道ならまだいいほうで、肺のカビ(まれに生える)だとそのまま見てもよくわからないことはざらにある。
「黙って見るだけでわかる」というのは実際難しい。カビに限らない。慣れていても見逃しやすいケースもけっこうある。木が森の中に隠れている感覚、というか……。
そこで、ぼくら病理医は技術をもちいる。ほかの細胞と入り混じってしまってわかりづらくなったカビであってもビシッと見つけ出すために、「特殊な染色」を使うのだ。
ふだんぼくらが顕微鏡をみる際に、細胞が見やすくなるようにハイライトすべく用いている染色は、HE染色という。H&E染色と書く方が多いかな。ヘマトキシリン・アンド・エオジン染色。ヘマトキシリンという色素とエオジンという色素を用いるのだが、この染色は、DNA(が含まれている核)が陰性荷電しているという性質を利用して、核だけを青紫色に染め分けることができる。通常の病理診断では細胞の「核」を最重要視するから、核をハイライトしてくれるHE染色は最強なのであるが……。
ぶっちゃけると、人体の細胞とカビ(真菌)との違いは、核をみていてもあまりよくわからないのだ。だから核をハイライトするタイプの染色だと、似たような染まり方になることがあってまぎれてしまう。
そこで、人体の細胞とカビとの「大きな違い」に着目して、そこを狙って染め分ける染色を別に用いる。その「大きな違い」とは……。
カビには細胞壁がある。
これだ。
細胞膜(まく)ということばと、細胞壁(へき)ということばを、我々が最初に知るのは中学校の理科の授業である。しかしそれっきり使わなくなる。細胞壁などということばは、ぼくらがカロリーを気にしながらご飯をたべたり好きなスポーツをみて暮らしたり確定申告にうんざりしたりホワイトデーにカップルを狙撃したりする役にはまったく立たないので、人口の99%くらいがどうでもいいと思っていてみんな忘れてしまう。しかしここではじめて人間の役に立つ。ことばや知識というのはなんとも味なものだ。
人体の中にある細胞は絶対に細胞壁をもっていない。しかしカビには細胞壁がある。ということは、細胞壁をうまく染める染色を用いれば、紛れ込んでいるカビだけをハイライトすることができる。
たとえばGrocott染色というのがそれである。銀を用いて染色をする、鍍銀(とぎん)染色の一種。染色に用いるときの銀成分はピカピカシルバーに光るわけではなくて、酸化してまっくろになる。顕微鏡で人体の細胞を観察する際に、Grocott染色を用いることで、そこに黒っぽく浮き上がってくる物質があったらそれはカビの細胞壁ではないかとあたりをつけることができるのだ。
細胞の中にまぎれた「へんな細胞」「やばい細胞」を見出すためには病理医の工夫が必要となる。その工夫の多くは、「違いに着目してそこをハイライトする」というものだ。そして、ハイライトするのは病理医というよりは臨床検査技師の役目である。Grocott染色は発色に1時間近くかかるめんどうな染色で、実は技術が下手だと標本が真っ黒になってしまってうまく観察できなくなる。病理診断は極めて高度の知性を必要とする……なんて病理医がときどき偉そうに言っているのだけれど、臨床検査技師の技術がきちんとしていなければ我々はなにもできない。違いを知り、違いを染め分ける。ここに病理診断のアナログかつ味わいぶかい特性が潜んでいる。