先日、キングジム公式さんの書いた本を読んだ。文章ににじみでる、「キャラの硬度」みたいなものが、頭の中で音声に変換される。ああ、これはキングジムが書いているなあとわかる文章だ。
そういうことはよくある。
かつて、NHK_PRというアカウントが書いていた文章は、ある種の色とやわらかさ、一定の温度をもってぼくの脳に入ってきた。
東急ハンズの関連アカウントであるハンズネットや、ヴィレッジヴァンガード、ムラサキスポーツ、OKウェーブなど、企業公式と呼ばれていたアカウントたちはいずれも、ツイートの文章を読むだけで、あたかも人間の声がひとりひとり違うように、文章にまとわりついて五感に訴えかけるテクスチャのようなものが違って感じられたものだった。
そういえば、「NHK_PR 1号」の中の人は浅生鴨だったわけだが、浅生鴨があそうかもとなって現在ツイートしている文章から感じる色彩や感触は、NHK_PRのそれとはかなり異なっているように思う。不思議なものだ。彼はそういうことを狙ってやっていそうだ。
長くツイッターをやっていると、自分のツイートを見た人から「変わったね」と言われることがある。それはわかる。だってぼくは実際にどんどん変わっていくからだ。9年経って変わらない人がいるか? 加齢するのは皮膚や髪の毛だけではない。声も変わっていくし文章も変わっていく。なぜなら脳がどんどん変わっていくからだ。
だから「変わったね」という人を見ても、当たり前じゃんとしか思わないし、「そうですね」としか返事しない。「晴れましたね」「そうですね」てなもんだ。
しかし、おもしろいのは次のような感想だ。
「変わらないね」
うそぉ!?
変わってるじゃん!!
でも実際、変わっていない部分もあるのだろう。それは、たとえばぼくがキングジムの本を読んで感じた「キングジムとしての感触」のような部分と同じようなヤツだ。NHK_PRと浅生鴨が異なるテクスチャを持つように、アカウントが変われば用いる「分人」もかぶるペルソナも変わる、しかし、同じアカウントを使い続けていたら、そこにはある種の「梁」のような、「コア」のようなドグマが……いや、そんな大仰な話ではないかな、何年経っても「あなただ」とわかる感情温度のようなものが、ずっとアカウントの周りにふわふわ漂っているものなのだ。
どれだけ心を入れ替えようと、どれだけ文章表現を磨こうと、ぼくらの周りにひとたび漂ってしまった色彩や温度、手触りのようなものは、おそらくそうカンタンには入れ替わっていかない。だからその人はいつまで経ってもそういう人だ。
ただし、自分のまとっているテクスチャーを「変えたい」と努力している人というのは、見ていてわかるものだし、「変えたいと努力している」という雰囲気自体はおおむね他人によい感触を与えるものである。