2020年3月26日木曜日

誤字ひとつを膨らませる話

自分の誤字をまじまじと眺めている。


異なる出版社から2つの教科書をほぼ同時に出すにあたり、特別企画として「2版元連携POP」を作ることになった。ぼくの手元に小さな紙が届き、そこに手書きでぼくが何事かを書く。すると、デザイナーさんがPOPにアレンジしてくれる。そういう手はずだった。

「買いたくなる」を「いたくなる」と誤記していたことには、最後まで気づかなかった。

POPのデータを数案送ったら、笑いと共に返信が来て、「ここ間違ってます」と教えられた。ぼくも笑ってしまった。(しかもこの誤字バージョンがほぼそのままデザインされて店頭に並ぶことになった。手練れか)




このミスは、ぼくの脳が普段どうやって働いているんだろうと思いを馳せる絶好の素材でもある。



そもそも、「書く」という言葉に個人の願望をのっけた場合の正しい日本語は「書きたくなる」だ。「書いたくなる」という表現は存在しない。だからこの誤字はかなりやばい誤字に思える。

ナチュラルに誤字したときのぼくの頭の中は、あくまで「買いたくなる」という音と「買いたくなる」という意味で満ちあふれていた。「書」という言葉が書き記されてしまったのは単なる混線、完全に無意識だった。「買」と書いたつもりだった。それなのに、「書」という漢字自体は、画数、書き順ほかすべて正確に記されている。まずこのことがとても不思議だ。

バッターが高めのボール球に思わず反応してしまうときにもスイングは途中まで完全な軌道をとってしまう、的なものか?

ちょっと違うか……。でも途中から反射で書いているというセンはありそうだ。




「買」という文字と、「書」という文字は、横線が多いから似ているといえばそうかもしれないが、実際のところ、全然似ていない。

発音が同じ「か」だというだけ。

「かう」と「かく」。送り仮名からして違う。音読みに到っては「ばい」と「しょ」。ぜんぜんかぶってない。

となるとぼくは、この2つの文字を、無意識では「か、の箱の中」にまとめてあって、それらを「指先のあたりで」「反射的に」誤選択したということににある。

うーんぼくの脳内インデックスって音で分けてるのか!

あるいは……小学校2年生くらいのときに習う漢字という共通点もあるか……。





ぼくの無意識を、もっと意識的に探っていく。

いったいどういうメカニズムで「書」という漢字が出てきてしまったのか。



1.頭の中には「買いたくなる」というイメージが浮かんでいる。「買いたくなる」というフレーズを紙に書こうとして指先を起動させる。

2.「買」という漢字を書くために、脳内ストック「か」を検索してすかさず飛び付いた字、これが間違っていた。しかし頭の中はすでに「~いたくなる」以降のことを考えていて、POPにほかにどういう字を書き込もうかなということで思考が占められている。つまり「買」を書くことについては、あっという間にチェックがおざなりになる。

3.「書」の書き順や運指は指先にしみ込んでしまっている。だから、すでに意識がそこになくても無意識で書き終えることが可能。

4.「買いたくなる」と書いたつもりでいるので、間違いに気づかない。

5.そういえば、直後に「教科書」というフレーズがある。もしかしたらこの「書」に引っ張られたのかもしれない。買いたくなる教科書、というフレーズを書き始めたときにはすでに「教科書」くらいのところを脳内では書き終わっていた可能性もある。だから混線したのか?




アハハハ変だなあゲラゲラゲラ。

「書いたくなる」という言葉の違和感がすげぇなあ。味わいがあるなあ。

「見たことない言葉の浮ついたかんじ」に直面する魅力が出てきたなあ。

雑だけどこれって記号論でもあるなあ。





人はたまに、間違いの理由をうまく解析できないようなミスをおかす。

そのときの脳はおそらくいつもと同じようにぐちゃぐちゃ働いていて、たまたまいくつかの偶然が重なりつつも、ある程度「妥当なつながり」によって変な発火が連続して発生してミスが完成する。

今の書き間違いを105歳のぼくがやっていたら「ボケた?」と言われるかもしれない。

でもこれってボケなのかな? どうももうちょっとフクザツな……ていうとなんだか偉そうだな、でも、「複雑系の隠し子」みたいな現象なんじゃないかなあ。

ていうかそもそも、脳はなぜ普段はこういうミスをしないのか、というほうが魅力的な問いではある。うーむ誤字ひとつでここまで混迷するとは……。あ、誤字だから混迷するのは、あたりまえか。