それでもなお、学ぶことにより、少なくともある一面において知識は堆積していくものなのだと、まだ信じていた。
それが最近だいぶ変わってきた。少なくとも40代のぼくにとって、学ぶことは、何かを積んでかさをましていく行動とは限らないなあという実感が出てきた。
あるいは、主客転倒、「何かを積み上げてその高さを眺めて、ああ学んだなあと納得することができなくなった」という言い方もできる。
最近何かにつけて、繰り返しあちこちで書いているうちに、だんだん「自分のことば」として使えるようになってきた、他人のアイディア。こりずにまた書いておく。
どうやら知識というものは、純粋に自分の持ち合わせにプラスしていくような性質のものではないようだ。
知識は、ぼくがすでに持っているもの、抱いているなにものかを、ガシャガシャと揺るがせることがある。
そのまま何もしなければ、黙って積みあがっていたであろうジェンガの塔、あるいは崩し将棋の駒たちに、指をつっこんで何かを抜き出して、「動かさないように気を張りながら、結局のところは崩れてガシャンと壊れることを期待する」こと。
こういう知識が世の中にはある。
「新しいことを知りました、学びました」ということばを、RPGで新しい剣やクエスト用アイテムを手に入れたかのように語ることが難しい場面をしばしば経験する。
知らなかったことを知ることで、これまで無意識に「この程度だったら見通せる」と思っていた世界の辺縁に、あるいは中心部であっても標高がかなり高いところに、何か思ってもいなかった風景がガシャンと増える。
すると「一瞥」できなくなる。それまでの自分の能力で世界を「俯瞰」できなくなる。視野角度を超える。
井の中の蛙は学ぶことで井戸の外に出ることができる日がくる。
それはきっとある種の絶望を伴うと思うのだ。
水場の広さ。空の青さ。夜空の星の数すらも、限られた景色の中で見ていたときのほうが、まだかわいげがあったと気付く。
おまけに蛙はこのあと飛行機に乗って地平線の向こうを見に行くことも、ロケットに乗って違う銀河に飛び立つことも、過去や未来に自分を飛ばして違う空を見ることもできる。
それが学ぶということだ。「学び」をニコニコと語れなくなる日が必ずやってくる。
その上でなお学ぶかどうか、ということなのかもしれないがこれはもしかするとマッチョな思考かもしれない。