2019年8月22日木曜日

よしあしを言わずよしよしと言え

『天気の子』は息子とみたのだが、息子は少し眠たそうにしていたけれど最後までみていたのでうれしかった。内容よりもなによりも、映画を親子で一緒にみたことがよかった。だから、ぼくは、『天気の子』のレビューのうち、ほめたりよろこんだりしているものだけを拾い読んで、自分と息子の記憶をやさしく守っている。

批判的吟味は味がある。読み手と書き手双方の心をひらくし、明日のクリエイティブにもつながる。それはなにもエンタメだけに限った話ではない。学術だってそうだ。論文は批判的に読むに限る。批判的というのは眉をひそめてなじるという意味ではなく、妥当な部分と疑問がある部分とをきちんと浮き彫りにして、美辞麗句に飛びつかずに本質をしっかり批評するという意味だ。書き手の肩書や時代の要請に合わせて、物事の一部だけを過剰に強調したり、あるものに目をつぶったりしてはならない。

でも、ぼくはもう、少なくともエンタメについては、そういうのは自分でやらなくてもいいかなと思っている。

あらゆる作品には、作品そのものが持つ純粋な価値に加えて、作品の外で起こっているぼくと息子、あるいは誰かと誰かとの行動を触媒する作用がある。作品がいいものだろうがいまいちだろうが、作品の周りで起こったできごとが素敵ならばそれは素敵な作品なのだ。

かつて犬が、最近はあごに手をあてがちな人が言っていた。作品を言葉で言祝ぐこと。感想を言語化すること。批判はしない、批評はしない、よいところを丁寧に救って口に出し、キーボードを通じて世界につづること。

それが何かの目線を鍛えて強くするのだという。

ぼくは全くその通りだと思ったし、そもそも、何かを強くせずとも、自分の中に長くある思い出を保湿するために、常に何かのことを細やかに書き記していくことがいいんじゃないかと、そんなことを思った。