2019年8月30日金曜日

串鳥は思った以上にうまいのでおぼえておくといい

ブログやnoteに載せるための文章、平均するとだいたい毎日書いている。だいたい1000~1500字くらいの文章が、主に手癖によって浮かび上がってくる。あまり脳を回さなくても書ける。

だんだん自分のパターンみたいなものもみえてくる。事象の大きい小さいにかかわらず、どのようにアプローチして、どこにひっかかって、どこをクローズアップしてどうやって語ってどのようにオチを付けるか、というのが何種類かの類型におさまっている。マクロレンズの観察でもドローンを用いての観察でも、論理の立て方があまり変わっていない。思考のフラクタルと命名した。




素人のぼくはおいといて、プロのもの書きはどうかという話をする。一人の作家の著作をずうっと追いかけていくと、異なるモチーフを同じ思考回路で解釈して書き続けている人と、異なるモチーフごとに異なる思考回路を適用して書き続けている人がいるようだ。

後者のことは純粋に尊敬しているが、かといって前者であったとしてもすごくよいものを書く人はいっぱいいる。前者にも後者にも好きな作家がいる。

すなわち、思考の筋道が類型化すること自体はあまり問題ではないのかもしれない。

ただし前者は、丹念に取材をして、常に新しいモチーフを探し回っているイメージがある。つまりは同じ鍋を使っていると言っても、異なる具材を放り込んで、調味料も変えて、加熱方法こそ一緒かもしれないが毎回違う料理を作っているということだ。




ひるがえってぼくは思考のフラクタル的回路に毎回ちがう素材を入れているかというと……。

どうも、同じ食材を同じ鍋にいれて、同じ加熱方法で、まるっきり同じ料理を作ってしまう傾向にある。にんじんを切る大きさをかえてみたり、切り方を変えてみたりはするけれど、あとからカレールーを入れるところはいっしょだ。カレー好きだからいいんだけど……とも言ってられない。

そういえばぼくはかつて、ばんめしを冷凍讃岐うどんと決めて、1年半、ずっとおなじうどんを食っていた。



仮に同じカレー、同じうどんを作り続けるにしても、その場合、細部を美しく詰めていく努力をしているならばまだよい。

いっつも似たような素材を似たようなかんじで料理しているが、だんだん研ぎ澄まされていく、なんてのは、老舗のおでん屋さんとか焼き鳥屋さんみたいで、ちょっとかっこいい気もする。

ぼくは晩飯のうどんには1年半で飽きてしまった。しかしブログのほうは、なじみの客が落ち着くような焼き鳥屋を目指して、毎日こつこつとやっていくのがいいのかもしれない。身の丈に合っている……というと本職の焼き鳥屋さんに失礼かもしれないし、そう簡単なことではないと思うのだけれど。