今にして思うとまああのころによくぞ気づいたな、という話なのだけれど、自著『いち病理医のリアル』において、病理医という仕事が
”編集者に似ている”
と書いたことがある。
今でもこれは思う。
ただ今だったらもう少し違う表現を使うだろう。
病理医は、というか、医療者は、作家にあこがれ、編集者のやり方から学ぶといい。
タレントにあこがれ、ディレクターのやり方から学ぶといい。
「似ている」というのはおこがましかった。ぼくらはまだ編集をする人たちの能力に追いついていない。しかし彼らのやり方を学ぶとおそらく仕事のためになるだろう。
たとえばそれは、「虫の目」と「鳥の目」を使い分けるということ。
マクロレンズのように対象に接近して、理論で裏打ちされた直感で物事の本質を鋭く突きさすように見ること。
あるいは、ドローンのように俯瞰して、群像劇全体を眺めてどこに人が集まりどこが手薄なのかを見極めること。
あるいはそれは、知性によって組み立てたコンテンツを、組み立てて終わりにするのではなく、必要とする人を探すこと。
このコンテンツがあれば絶対にうれしいということを「まだ」知らない人に、コンテンツを活用して実際に喜んでもらうための、コンテクストをつくること。
そして、コンテンツとコンテクストを両方、磨き続けること。くりかえすこと。継続すること。
人の心に何かをぶっさして、そこに心を残すために、何をどの順番で語ればよいのかと、悩むこと。
そもそも自分だったらどういうものに心を奪われ、刺され、支配され、育てられるのかと、ふりかえること。
世のすべてを編集という言葉で置き換えていく松岡正剛式のアピールについてはたしなめられたこともある。実際、編集という作業をする上では、コンテンツそのものを作り出すクリエイター、テレビにとってのタレント、科学にとってのデータメーカー、医学にとってのエビデンスが必要だ。編集だけでは社会は回らない。しかし、ぼくらは、どうも、「編集される側」にばかりプライドを見出している気がした。
やることが多く、前に進むために、自分が心を動かされたものを順番に読み返すなどしている。これはなんというか、新しいことを知るために、何度も何度も読んだ本をまた読み返しているようで、うーん、遠回りすぎるかなあとも思うのだけれど、ぼくの根源をきちんとゆさぶったものに何度か立ち返ってみることもいいかなあと思い、深夜特急を読み直すなどしている。