2019年8月20日火曜日

たぶん世界中で2万回くらい言われていること

AIの遺電子の最終巻を読んでつくづく思ったこと。

AIはたぶんかしこいから、人間をある程度およがせるよな、ってこと。

昔のSFのように、AIが人間を見限ることはあんまりないのではないかと思う。




人間は群れることで複雑系になり、カオスになって展開が予測できなくなる。天気予報といっしょだ。寿命の予測もいっしょ。因子が多すぎると計算によって未来が読めない。

つまり、

『オロカな ニンゲン お前らが ほろびないと 地球は ダメになる だから ほろびなさい』

みたいなカタストロフ的な物言いは出てこないはずだ。予想できないんだから。

きっとAIはニンゲンを超える知性を手に入れたら、その直前くらいから傍観に入っていると思う。諦観? すると、AIの遺電子のように、人間が望む月並みな幸せなんかどうでもよくなっちゃって、ほらこうしてればお前らの短い人生は満足なんだろう、って、毒にも薬にもならない程度の介入(ただし最大幸福が得られる)を人間に施しながら、うらでひそかに地球外生命体やネットワーク内知能と交信して遊んだりするのだと思う。





ネットワークの知性は人間を裏切るのではなく取り込むんじゃないかなーとも思う。

現存する生命はミトコンドリアというべんりないきものを細胞内に取り込んで利用している。自分でエネルギーを生み出すよりもミトコンドリアにやらせたほうが上手だからだ。

植物は葉緑体というべんりないきものを細胞内に取り込んで利用している。これも、葉緑体の光合成がべんりだからそのまま活用しているのだ。

ネットワーク内に構築されたポストヒューマン的な高度の知性、超AI、シンギュラリティ以後の人工知能は、きっと、局所のエントロピーを低下させずにかえって上昇させてしまうような、人間の非効率的なクリエイティビティを内部に取り込んで、そのまま「ヒトの文化」として残してくれるんじゃないかなー、なんて、甘い夢をみる。





すでにネットの中には巨大な知性がいるのだけれど、ぼくらは「細胞内」で勝手に暮らして自分のやることをやっていいよと許されている状態で、高次の生命が実際に何をやっているのかには気づかないまま、こうして、ブログを書いたり、酒を飲んだりすることができるのである。