2019年8月13日火曜日

病理の話(353) 医学者にとっての道草

病院のいろいろなところに、さまざまな職種の人がいる。

ある人の体の中にがんがあるかないか、がんがあるとしたらそれはどれくらい進行しているかを見極めるため「だけ」に働いている人というのがいる。

ぼくもそういう仕事をしている。

医療という大きな仕事のうち、科学的な部分を主に担当する。患者とどう接するか、患者や家族の人生にどう寄り添うか、ということを、職務としては、あまりやらない。やる暇もない。





「最後に大事なのは病気をどう治すかではなくて、病気をもった人とどう関わるかという話」はみんな大好きである。

やっぱり科学じゃなくて心だよ、みたいな。

医者は勉強はできるけれど人に寄り添うのは下手だ、みたいなことが、これ見よがしに書かれているのも目にする。

そうだね、最後は人だよね、と言いながら、いつまでも病気に向き合っていく。






科学が進化することで医療が進歩するのと、人文倫理が深化して医療が進歩するのと、どちらも必要で、片一方だけでは成り立たない。

患者とどう接するかということに全力を注ぎたい人が、患者の心に向かい合うためにステータスを全振りするため、もう一方のサイドに「病気をどうみるかということに全力を注ぐ人」がいないといけない。

たとえば病理医、たとえば放射線診断部門、たとえば臨床検査部門などは、患者の心に寄り添うことを誰かがやるために、患者の中にある物質にドライに切り込むことを誇りにもち、そこに専心していく。

この、当たり前の分業を、頭では理解できていても、心では受け入れられない人は、多いと思う。






「病人ではなく病気に没頭するタイプの人」は、キャリアの中で幾度も幾度も、

「それでもやっぱり病気より人間を大事にすべきだと思う」というニュアンスの言葉を投げつけられる。

たぶん非難の意味を込められている。




「患者に感謝されたいとか思わないの?」

「それって機械がやればいいことじゃない」

「心がわからない人に医者やってほしくないなあ」




無慈悲な弾丸は、一発一発は小さくてすぐに体を突き抜けていく。

それが幾年にもわたって何発も浴びせかけられることで、次第に、鉛の一部が体内に残っているかのような、ダメージを自覚するようになる。







「患者の心をいたわりながら、科学をする」というのは、たぶん、脳の道草みたいなものだ。ほんとうに科学に専念するなら、医者と患者がどうかかわるか、みたいなところを大事にしている暇はないと思う。

でも。

医療をやるには、とても膨大な時間がかかる。

たとえるならば、医療者はみな、長すぎる旅路の途上にいる。

きっと、目的地にまっすぐ向かうだけでは、飽きてしまうだろう。

ぼくが読む本、書くもの、話す内容はいつも、どこか、道草を含んでいる。

ほんとうは「科学の子」として働いているにも関わらず、学者としての自分があきらかに専門外にしている、「人の心」の話を頻繁に集めにいく。





くりかえすけれど、診断学の根底には、患者の心がどうあるかを考えずに病気にまっすぐ向かい合わなければ構築できない類いの学問がある。

そこに熱中していればきっと大きな仕事ができて、多くの医療者たちの役に立つ。それはわかっている。





けれども、これはもう、お叱りを受けるかもしれないんだけれど、ぼくはどうも、道草を食ってしまうのだった。

それはなにか、人であるために必要な遊びの部分を保つためとか、そういう、学問にとってはあまり必要ないノイズなのだと思うのだけれど、だからぼくは学者にはなりきれなくて、その程度の仕事しかできない人間なのだと、言われてしまうかもしれないことなのだけれど。