2023年8月10日木曜日

手が滑ってバズった

ここ最近でいうと、「積ん読と献本が嫌いすぎて嫌いすぎて」というタイトルで書いた記事の視聴者数が、いつもの3倍くらい多いのを見てなんだかがっくりしてしている。なるほど、タイトルに「強い感情」を書くとこうして読む人が増える。だからみんなああやってウェブ記事に爆発力の強い言葉を冠するようになるのだ。

「ウェブ出身」のライター・記者が本を出すと書名でわかる。「なぜ~~のか?」みたいなタイトルばかりだからだ。そういう記事が一番PV数が多かったという体験がしみついており、書店に似たようなタイトルの本が何百冊も置いているにもかかわらず、自分の渾身の著作に埋没必至の名前を付けてしまう。

なんというか、あわれだなあと思う。

自分が何かを世に出すにあたって、自分にしかひねり出せない言葉をこれでもかこれでもかと積み上げて、一枚一枚紙を束ねて丁寧に作った本に、最後の最後に「売れ筋」の看板を付けて平気な顔をしている。

あわれではないか。


「それでも手に取ってもらって読んでもらわないと何もはじまらないのだ」という考え方もあるが、TikTokくらいからこっち、「手に取って捨てる、手に取って捨てる」というサブスク消費が全盛になっており、手に取って読んでもらって、はじまったと思ったら次の瞬間にはもう終わっているのだから、「手に取って読んでもらってもはじまらない」ことをもっと真剣に考えたほうがいいとぼくは思う。そもそも手に取らなければ戦えない、というのは、「竹槍でも持っていないよりはマシ」というのとニュアンスとしては一緒だ。その程度の心意気でどうするのだ。「タイトルの段階ですでにおもしろい」と言わせずしてなんの書籍か、と思う。


しかしひるがえってぼくはこれまで、自分の書いてきた書籍のタイトルを自分で付けたことはほぼない。どんなオチだよ、と全員ずっこける音が聞こえるようだ。ただし、ぼくの本のタイトルはどれも「売れ筋になりそうにない、丁寧な名付け」だったからぼくは気に入っている。だからこそ、この記事の最初に述べた、「積ん読と献本が嫌いすぎて嫌いすぎて」のタイトルはちょっと手がすべったな、あーあ、PV増えちゃったなあ、とがっくりしているわけである。