ひと一人の限られた「可処分時間」をいかに奪うか、みたいなアプリ商売の流れに棹さしたい。
滞留せず、食い込まずにいたい。
動体視力チャレンジで壁と壁の隙間にふっとぶバナナやレモンのように、薄く、断片的な、自分のコアからなるべく離れた、爪の切りカスくらいのものを、情の湧かないレベルの他人の目の前に投げつけ、ヒット・アンド・アウェイで二度と出会わないようにしたい。
そうしたいと日々思っているけれど、実際は逆である。
自他の境界をとろけさせ、「特に何もいいことはなかったのだけれど、なんとなく世界と自分との共通点を見ていられる気がして、今日も8時間ほどスマホを見ていた」みたいなことになる。
8時間? いや、そんなに見てない。だって仕事をしているから。
とか言ってる時点でいっしょだ。仕事は実質SNSである。
八方にひそむ関係者たちと次々やりとりをしながら微調整しつづけるのが仕事の本質だ。つまりSNSなのである。ネットでだけ完結するアプリと違って現実のほうが規模が小さく速度が遅いだけだ。
スローライフとか言って速度だけで価値をはかろうとしているヤカラがいる。どうかしている。
ファストだろうがスローだろうが、取り組んだ内容次第ではないか。いうまでもない。しかし、再生速度だけいじればそのぶん「丁寧な暮らし」をしたことになる、と、こちらを騙してくる人びとが、Googleの検索結果の中にいっぱい潜んでいる。
今、「結果」をミスタイプして、「血管」が表示された。検索血管。まあそうだな、検索は固定した結果を返してくるわけではなく、常になんらかの流体を発生させるものであるから、検索血管という単語もあっていい。ダイナミズムを支えるパイプである。
検索血管を流れる思考が溶血しそうだ。
丁寧というのはゆっくりやることではなくて、ひとつひとつの所作に思考を噛ませることであろう。したがって、「速度を遅くすればいい」というのはポリシーとして弱い。
さらに言えば、丁寧ならばOKというのもへんな話だ。甘寧一番乗り。
「じっくり考えた結果、これが自分にとって最適だと思ったんです」と後悔を述べるかわいそうな人をあちこちで目にする。
考えればいいというものではないのだと思う。
どうせ時間をかけるのなら、思考にかけるのではなく、たとえばじっくり「鏡面」を磨いておいてはどうか。自分の周囲を覆う反射面を磨くのである。いざ、自分に何かが降りかかってきたときには、ぐだぐだ思考することなしに、鏡面で外界からの刺激を全反射する。脊髄反射ならぬ体表反射だ。きわめてファストな行動が可能になる。雑だなんてとんでもない、鏡をピカピカにするのにどれだけ「丁寧」な磨きが必要なことか。
そして、くり返すけれど、丁寧ならばOKというのではまったくない。アンチスローライフ、いや、ファストでもスローでもなく、雑でも丁寧でもない暮らし。甘寧は黄蓋といっしょにランチにでかけました。