2021年3月15日月曜日

病理の話(514) 画像検査で何をみるのかという話

CTという機械で、肝臓や膵臓をみる。


目的は「そこに病気があるか」としよう。


だいたい、2センチとか3センチくらいの、カタマリを作る病気であれば、見つけることができる……だろうか?


実はそうとも限らない。




「草原の中に馬が数十頭ほど群れている」ことはヘリコプターに乗っていればすぐに気づけるだろう。


しかし、「渋谷の雑踏の中に日向坂のメンバーが数十人混じっている」ことは気づけるだろうか?


普通に考えて、「人の中に人」では見分けがつかない。病気を見つけるというのもこれに近いものがある。だから、いろいろと工夫をしなければいけない。




ひとつの手段として……「そこに異常があることで、まわりがざわめいていないかどうかを見る」というやり方がある。


渋谷の雑踏に日向坂のメンバーがいたら、ファンが押し寄せたり声を上げたりそれを警官が押しとどめたりして軽く「パニック」になるだろう。


ヘリに乗ってそこを見ると、「原因が日向坂のメンバー」かどうかはわからなくても、「誰かのせいでパニックがある」ことはわかる。パニックのせいで道路が封鎖されて、近くに交通渋滞が起こっていることもわかるに違いない。



これといっしょで、たとえば膵臓においては、病気が隠れている部位の周りの形が歪むことがある。

膵臓の中を通っている「主膵管」という管が病気によって「せき止められ」、本来そこを通るはずだった膵液という自動車が渋滞して、管がパンパンに膨れることがあるのだ。

すると、病気そのものは見えなくても、「主膵管のふくらみ」によって、ああ、どこかにパニックが起こっていて渋滞が発生したのかな、と予測することができる。



ほかにも、病気そのものはわかりづらいが臓器の変形や萎縮(小さくなる)、一部が飛び出ることなどで、「おそらく病気があるな」と気づけることもある。





「病気をみる」という言葉を書くとき、ぼくは「見る」という漢字を使わないことが多い。これは、病気が毎回「見えるもの」ではない、という感情によるものだ。「診る(=診断する)」という言葉のほうがマッチする場合もある。究極的なことを言うと、見るし、観るし、視るし、ときには看ることも必要で、そういったことをぜんぶひっくるめて診るので、「みる」としか書きようがない。


けど本を書いているとけっこう校正さんに「為念 ここは『見る』ですか?」みたいにチェックされる。ごめんね、性根がめんどうで。