2021年3月30日火曜日

暇は細部で潰す

本を読んでいるとする。そうだな、論考・論説的なものを思い浮かべる。その中には「章立て」がある。章ごとにキーワードというか、話題の芯となるような強い単語がある。

「ナラティブ」とか。

「ケア」とか。

「ギャップ」とか。まあそういうものだ。



その単語が同じ章の文中に何回出てきたかによって、読んでいるときの感覚が変わる。

1回しか出てこないとき。それが章のキーワードと気づかないことがある。あとで振り返って「ああそうか」と腑に落ちることもあるし、いつまでも気づかないまま通り過ぎてしまっていることもある。

2回しか出てこないとき。強い恣意を感じる。たとえば序盤に1回、終盤に1回だと、ああ、著者はこのキーワードを柱として書いたのだな、という印象がスッと思い浮かぶ。

3回出てくるとき。この単語ひとつから広げようとしたのかな、という企画段階の苦悩を感じる。

4回出てくるとき。反復によって印象づけようとしているんだろうけれどもしかすると読者を下に見ているのかな? などと思う。

5回出てくるとき。散文と詩の境界がわからなくなるタイプの人なのかしら、と考える。

6回出てくるとき。推敲で削ってなお6回なのかしら、それとも校正で指摘しない文化があるのかしら、と思う。

7回出てくるとき。ほんとうは6回だったんだけどなんか縁起が良い(?)から1回増やしたんじゃねぇかなって邪推。

8回出てくるとき。魔法陣でも書くつもりかよ、と笑う。

9回出てくるとき。なんかうまいこと言う文化圏の人だな、と結論する。



だいたいこういう感じで読んでるんだよね、と友人に話したところ、「単語の出てくる回数を数えながら読んでたら、話の筋なんて頭に入らないでしょう」と笑われた。それでわかった、逆だと思う。「話の筋が入ってこないからこそ単語の数をかぞえている」のだ。昔、サザエさんか何かの4コママンガで、つまらない話を聞きながらざぶとんの端っこをむしっている人というのが出てきたが、あれといっしょ。筋が入ってこないからこそ細部に目が行ってしまうということなのだ。さほど親しくない知人の結婚式に出たあとは料理のことをよく覚えているものであるが、たぶん、そういうことなんだと思う。