2021年3月24日水曜日

そういう場所

20年以上前、ほぼ日で「まっ白いカミ。」を連載していたシルチョフ・ムサボリスキー氏が何かの拍子に「ジュンク堂をふらふらと歩いて」と書いたのを見て、大学生のぼくは「あっ、東京だ。これこそ東京だ。」と思った記憶がある、ぼくにとっての東京は長いこと「ふらりとジュンク堂に行ける場所」だった。

今や札幌にもジュンク堂がある。丸善ジュンク堂系列のTwitterアカウントもたくさんフォローしている。長い時を経て、ぼくにとっての東京は「ジュンク堂にふらりといける場所」としての輝きを失った。しかし、だからこそ、ぼくの中ではいまだに東京は「自分が若かったときにそこにいたら、ジュンク堂にふらりと行ったであろう場所」という輝きを失っていない。

大学二年生の夏。ラジオで異様なくらいに流れる「Time will tell」が、何度も何度も耳の前方を通り過ぎていった。それを歌っていた人が、有名な歌手の子どもであることも、R&Bを意訳して急速に日本に普及させようとしている立役者であることも、自分より年下であるということも何も知らないままに。ぼくはその日、東日本医科学生剣道大会に出るために横浜にいた。まだ団体戦のメンバーに入れなかった頃の話。団体決勝戦でぼくの先輩たちは昭和大学に負けて準優勝に終わった。いや、順天堂だったろうか。記憶があいまいである。泣き崩れる先輩たちを見ながらもぼくは自分が参加できなかったイベントにどこか他人事で、試合の打ち上げが終わって現地解散、首都圏が地元の先輩達は東京に向かい、札幌に帰る同期は羽田空港に向かって、ぼくはそのまま横浜に残り、国立大学に進んだ高校時代の同級生の家を訪れた。関内駅の近く、ラーメン屋の横を歩いているとき、早くも国民的歌姫の貫禄を発し始めていたその人のファーストアルバムのジャケ写が、工事現場横のような白壁に特大サイズで何枚も貼られていて、ぼくはその鼻の穴の大きさにびっくりし、目線に吸い込まれ、はじめて宇多田ヒカルという存在を知った。

横浜の友人の家を訪れると彼はもうひとりの同期を待ちながら音楽をかけた。ドラゴンアッシュ、ナンバーガール、ウーア、ゆらゆら帝国。当時「スペースシャワーTV」や「VIBE」でヘビーローテーションしていたJ-POP、オルタナ、エモ、そういったものを彼はよく聞いていた。タワレコで試聴して買った、と彼は確か言った。ぼくはそのとき、ああ、東京だ、と感じた。宇多田ヒカルの看板が凄かったんだよ、と言ったら、「そうだな、流行ってるよ」と彼は楽しそうに言った。そこは横浜だったけれど、ぼくはすかさず東京を感じた。遠く札幌に生まれ育って、東京とはジュンク堂に「ふらりと」立ち寄れる場所なんだよなと考えていたぼくは、その日、東京とはタワレコにふらりと立ち寄って新譜をヘッドホンで視聴できる場所なんだ、と自らのフロント(最前線部分)を更新した。



ミルククラウンの水滴は1発目が一番高く、2発目はその周辺に同心円状に広がってやや低く、3発目、4発目となるに従って範囲が広くなり高さは低くなる。いつしか波になりさざ波になり凪に戻っていく。



ぼくは1997年から2003年にかけて剣道の大会で何度も東京を訪れ、そのたび、「ぼくはここを遠くに眺めてうらやむ存在になる」という確信を強めていった。あのころはまさかぼくたちがSNSを通じてこんなにも境界をとろけさせてしまうなどとも、ましてやあらゆる興味・趣味・嗜好の類いが相対化されて個別化して分散化してエントロピーを高めてしまうとも思わなかった。「東京とは」を語る音楽をめっきり見なくなったのも、誰にとっても召喚獣として効力を発揮するような「共通イメージとしての東京」が失われたからなのではないかという気がする、それでもぼくにとって、今なお東京は「自分が若かったときにそこにいたら、ジュンク堂にふらりと行ったであろう場所」という輝きを失っていないし、たぶんぼくはこれからも東京の辺縁で何度も何度も宇多田ヒカルと出会い直してはどでかいカンバンの鼻の穴が気になってしまう。