2021年3月9日火曜日

病理の話(512) 無意識に差別してしまうことがある

先日、雪道で車がスタックしたときにひさびさにJAFを呼んだのだが、ランクルを駆ってやってきたおっさんがぜんぜんタバコ臭くなかったので感動してしまった。

昔だったらこの見た目のこういうおっさんは100%タバコくさかったのに!





――みたいなことをぼくもけっこう普段から考えている。偏見まみれなので、あまりおおっぴらに言うべきことではない。ランクルの前方にフックとワイヤーをひっかけて、ぼくのはまった車を雪の中からズボズボ引っこ抜いてくれる腕利きのおっさんがタバコくさいはずだというのは完全にステレオタイプの押しつけである。こういうところにハラスメントが潜んでいるし、差別の根もおそらく存在している。





そういう目線、そういう視線、そういう心から自由であろうとするためにはたぶん言語化が必要だ。「自分が今、差別的な心象を抱えている」ということを自覚してはじめて修正ができる。ただし、自覚すれば必ず修正できるというものでもない、というか、基本的には無意識の偏見みたいなものはなかなかなくならないので、この修正は決して簡単ではないと思う。





……このような、「差別的な無意識」が、ときに、自分の仕事(病理診断)においても影響を及ぼす。難しいことだ、しょうがないと、あきらめているばかりでもいけない。

「この年齢、この性別、このような主訴の患者から採取されてくる検体であれば、顕微鏡をみたときにきっとこういう所見が得られるだろう」

みたいなことを、本当に無意識に、毎日思い込んでしまっているときがある。この主治医が、このようなスケッチを描いて、この瓶の数で出してくる大腸生検であれば、まず潰瘍性大腸炎で間違いないだろう、みたいに。

でもそういう思い込みは危険なのだ。これは病理検体に対する無自覚な差別と考えることができる。「どうせ○○だろう」の先には薬剤性腸炎の見逃しがあり得る。腸管スピロヘータを見落とすこともある。学生ですら気づけるアメーバ栄養体が目に入らないかもしれない。




自動車運転で「だろう運転はだめだよ、かもしれない運転でなければ」みたいな標語がある。あれはほんとうにそうなのだ。ヒヤリとすること、ハッとすることいつも、「どうせ○○だろう」という慣れの先におとずれる。

診断にもそういう側面がある。夜中にランクルから降りてくるがたいのいいおっさんがいつもつなぎを着たタバコ吸いで尿酸値が高く土日に場外馬券売り場にいるとは限らない。冗談めかして書いているけれどこのような「差別」に自覚的でないと、診断はほんとうに、取りこぼすことがある。