2021年3月29日月曜日

病理の話(519) 外科医は切る仕事ではなく病理医も見る仕事ではないという話

胃にできた病気を手術で取り除く。


肺の中にあるカタマリをくりんとくり抜いて取る。


膵臓の左半分を脾臓と一緒に摘出する。


こういった「手術」が、今日もどこかで行われている。主役は外科医だ。ま、ほんとは、婦人科医とか泌尿器科医、耳鼻科医、整形外科医、皮膚科医なんかもいっぱい手術をするんだけど、イメージとして、今日は「外科医」にご登場いただこう。


外科医は「切る仕事」と思われがちだ。しかし、実際には、「ならす」仕事であり、「焼く」仕事であり、「結ぶ」仕事であり、「整える」仕事である。手術の見学に入ると、目の前で外科医が何かを「切っている時間」は思った以上に少ない。「なんだ、外科医って切る仕事じゃないんだなあ。」という感想が漏れ聞こえてくる。


手術のあいだ、外科医は多くの時間を、血がにじみ出てきそうな小さい小さい血管を電気メスでじゅっと焼いて止血することや、切ったら確実に血がドバッと出るであろう血管を切断前に糸でしっかり縛る仕事に費やしている。

さらには、特殊なハサミをV字に開いて、それをチョキンと閉じるのではなく開いたままにして、ハサミの「刃」の側で、何かをずっとごしごしやっている。イメージできない人は、そうだな……「ゴボウの皮をハサミで剥く」ことを考えてみて欲しい。V字に開いたハサミをナナメに押し当てて、刃の部分で皮をこそげとっていく感じ。刃を立てたらだめだよ。ゴボウが切れちゃうから。

こうして、外科医はあまり切らずに、しかしここぞというときには電気メスでズバッと切って、体の中にある大事なものを「取り外してくる」。

さて、このとき大事なのは、取り出して両手に持っている「病気の入っているほう」だろうか?

まあそっちも大事だけれど、より患者にとって親身に大事なのは、体内に残ったほうだ。当然だよね。切って体内に出した方とは未来永劫の別れ。体の中に残った成分とは今後もしっぽり付き合っていくのだから、できれば居残り組の方に分厚い愛情を注いで欲しい。



さて、病理医が診るのは、「取り外したほう」である。病気の正体を見極めて、どれくらい病気が進行しているのかという程度も見定める。そして同時に、


「病気がとり切れたかどうか」


を確認する。


病気を全部取りきるというのは、外科手術の要点だ。体の中に病気が残っていては意味が無い。残党は必ず再起して、体に対して復讐のゲリラ戦を挑むだろう。反乱分子は一気に根絶やしにしないと遺恨を残す。手術では「取りきっている」ことが大事だ。


病理医はこの「取りきっているかどうか」をどうやって判断するかというと……簡単に言えば、外科医が切り取ったときの「切り口」の部分に、病気が顔を出していないかどうかをしっかり見る。


病気をまるごとくり抜く手術では、体の中にちょっと残ってしまうことがある。だから外科医は慎重に、「少し余裕をもうけて広い範囲を」切る。ただし、体内の血管の走行や、臓器の形などによって、どうしても余裕がとれず、病気と切り口との距離が、1mmくらいしかないこともある。英語ではmarginal resection(マージナルリゼクション)と呼ぶ。ギリッギリで取りきるということ。


こういうケースで、病理医が顕微鏡を見て、「見事に取り切れている」ときには、ああ、外科医やるなあ、うまいなあ、と感心する。


また、病気の形状が異常に複雑で、入り組んでいて、事前のCTなどの検査で「どこまでが病気なのか判定できない」ときもある。そういうときは、想定している病気の範囲よりも「気持ち広め」に臓器を切る。でもあまり切ってしまうと、その分多くの「正常の臓器」を失うことになる。画像診断の精度と、外科医の判断、そして若干の運までもがかかわる、非常に難しい部分だ。


こういうときも病理医は「切り口の部分」の評価を行う。慎重に慎重に顕微鏡を見て、切れ端の部分に病気が存在しないとき、またもや病理医は、ああ、外科医やるなあ、たいしたもんだなあ、と頭を下げる。


病理医は「(病気を)見る仕事」と一般に説明されるが、このように、「病気が見えないことを確認する」という仕事も行う。陰性の証明。そこになければないですね。こちらもまた、しびれる。