病理報告書には、病理医がプレパラートをみて、感じて、思って、考えたことが書いてある。
診断名: ○○(細胞をみてつけた病名)
所見: (採取された部分)が提出されています。(A)が豊富に存在する背景に、(B)細胞が、(C)という配列を形成して増殖しています。(D)という特殊な見た目や、(E)というあまり普通ではみないようすも見られます。なので、○○と診断します。
まあだいたいこういう感じのレポート内容が書かれている。
もうすこし文体はしかつめらしく書かれることが多いけれど。
この報告書を受け取るのは「主治医」だ。
患者に向かい合って、一緒に悩んで考えて、○○という病気だろうか、△△という病気だろうか、はたまた、■■という病気だろうかと思いを巡らせている。
あとは細胞さえ採れれば決着がつく、というシチュエーションにいることもある。
はたまた、細胞だけではどうにもならないけれど、細胞の結果も参考にしてもっとじっくり悩みたい、という考えでいることもある。
主治医は、さまざまな方向から仕入れた情報の中に、病理診断報告書の結果を差し込もうとしている。
さあ、病理診断報告書ができた!
このとき、主治医は、
診断名: ○○(細胞をみてつけた病名)
のところには、まず間違いなく、目をこらす。じっくり見る。
しかし、
所見: (採取された部分)が提出されています。(A)が豊富に存在する背景に、(B)細胞が、(C)という配列を形成して増殖しています。(D)という特殊な見た目や、(E)というあまり普通ではみないようすも見られます。なので、○○と診断します。
のところは、あまり見ないこともある。
そう、病理診断報告書は、きわめて大切な報告書であるにも関わらず、あまりきちんと精読されていないことがあるのだ。
えーー。せっかく書いたのに。読んでよ。
でもこれは別に、主治医が悪いというわけではない。
第一に、主治医にとっては、診断名のところさえ見れば用が足りることが多い。診断名というのはそれだけ重要なのだ。所見なんて読まなくても仕事に支障がなかったりする。そういうレポートが続くと、いそがしい主治医は、いちいちその下に書いてある「所見」(要は注釈みたいなものだ)を、読まなくなる。
まあ、それを読ませるのが「技術」だと思うのだけれど……。
第二に、「所見」は、けっこうな頻度で病理学の専門用語が用いられる。だから、そもそも、じっくり読んでも病理医以外には意味がわからないことも多い。そのため読み飛ばしてしまう。
第三に、所見の書き方があまり上手ではない……というか、所見が読むためには書かれていない(病理医自身が考えを整理するために書いている)場合がある。
たとえばこういうものだ。
「所見: Aを考えました。なぜならばAに典型的だからです。」
これは病理診断報告書を読みたくなくなる理由ナンバーワン(ぼく調べ)のだめな所見である。だって、Aと診断した理由がまったく具体的に書かれていないからだ。というかこれって日本語としても破綻しているよね。
ぼくは今日寝坊しました。なぜならばぼくは今日寝坊したからです!
みたいなのといっしょだ。最近どこかで聞いたような話だな。
あるいはこういうタイプのダメレポートもある。
「所見: 当初はAを考えました。しかしBの可能性もあるかと思いました。でもAのほうが可能性は高いのです。なぜならAを支持する理由があるから。でもBを支持する理由もあるんです。となるとBは否定できません。けれどもどちらかというとAかとは思います。しかしBを完全に捨てきれるわけではありません。」
ミルクボーイのネタかよ
でもこれ笑い事ではなくてほんとうにこういう病理診断報告書はあるのである。けっこうなベテランでもこれをやらかす。
このタイプのレポートをめったに書かない病理医が、1年に1回くらい、迷いに迷ったこういう文章を書くと、臨床医はぎょっとして、
「あのいつも冷静沈着な病理医がミルクボーイさながらに取り乱しているぞ! これは非常に難しいに違いない!」
とじゅうぶんに警戒してくれるのだが、問題は、毎日のようにミルクボーイってる病理医の場合である。こんなレポートばかり読んでいると、臨床医はまず、そういうレポートを読まなくなる。だって何言ってるかわからないんだもん。
で、最終的に、病理医が診断名には書かなかった、しかし所見の中で細やかに指摘した落とし穴(ピットフォール)に見事にはまって、診療が難航したりする。
そういうときに病理医が、
「あぁー、せっかくレポートに書いといたのに。ちゃんと読まない主治医はアホだな」
とか言っているのを小耳に挟むと、うーん、言語能力って大事だなあと、つつましく自戒したりするのである。