一部の病気は硬くなる。
たとえばひざに水がたまって関節がパンパンに腫れたら硬く感じるだろう。
これは、「水」という柔軟性がないものが、限られたスペースの中に充満している状態を「硬い」と感じているのである。
溜まっているものは正確には純水ではないんだけれどもかたいことは言わないでほしい(今のはナチュラルギャグです)。
外から触るとなんとなくわかる。「ああ水が溜まっているなあ。炎症が起こっているんだろうなあ」。
体の表面から触れる部分の硬度が変わり、手で触って知ることができれば、診断の役に立つ。
では、たとえば「肝臓」になにかものができたときに、そこが硬くなったとか、逆に柔らかくなったとかを調べて、診断の一助にすることはできるだろうか?
肝臓の一部は外から手で触って感じることができる。右側の肋骨の下の方を探っていき、息をすってーはいてーとやりながら肋骨の裏側をぎゅーと押すと、肝臓のへりの感触をかんじることが……できると……されているが……自分で自分のお腹をさわってもどうせうまくいかないからやめたほうがいいですよ。だいいちなんか緊張するでしょう。
肝臓や脾臓ならまだしも、胃とか大腸とかね、硬くなったとか柔らかくなったとかさ、触ってわかるものなの?
5センチくらいのしこりがドカーンとできていれば触ることがあるけれども。よっぽどうまく触らないとわからないと思う。
つまり、硬さとか柔らかさを直接手で触って診断に用いることは、体表から触れられる場所だけの特権みたいなものだ……。
ちょっと体の奥にあると、もううまく触ることができない。
では、「硬さ」という情報は、体の表面にある病気だけに用いるものなのだろうか?
胃カメラをやって、胃の中をのぞくときに、カメラから空気を出して胃をふくらませる。逆に、カメラの先から空気をバキュームして、胃のボリュームを減らすこともできる。
このとき、胃が大きくなったり小さくなったりする様子を、胃カメラで内部から見ることができる。
トンネルを中からのぞいているとそのトンネルがうにょうにょと広がったり縮んだりするわけだ。
ところが、トンネルの壁の一部の、「かたちがかわらない」としたらどうか?
ふつう、空気を入れてパンパンに広げれば、胃の粘膜はびよーんと伸びるはずである。
また、空気を抜いてしぼませれば、胃の粘膜はたわむ。
でもそういう伸び縮みがない部分があったら……そこは、「硬い」のだ! そう、硬さについては、直接手で触らずとも、「動きに対するリアクションがあるかどうか」で推測することができるのである。
胃粘膜の一部が硬くなっていたらそこには病気があるかもしれない。がんがあるか、それとも消化性潰瘍があるのかはもう少ししらべてみないとわからないけれど。
この、「移動に対する変形をみる」という技術を、一部の医者は「硬さをみる」と表現する。なかなか高度な言い方だ。実際、日本人の内視鏡医はこの「硬さ」をよく理解しているのだが、欧米や南米などで現地の内科医と話をすると、「胃の病気の一部が硬いとはどういうことだ? おまえら日本人の医者は胃を直接さわっているのか?」と疑問を投げかけられたりもするのだという。
ほかにも、臓器表面の不自然な引き連れだとか引き込みのような「形状の変化」を「硬い」と表現することもある。
形態学というのは言語センスとセットになっている。ぼくらはこういう言葉を日ごろから使いまくっているせいで、つい、あまりこの世界に興味関心がない人に、慣れ親しんだ専門的な形容詞を使って会話をしてしまって、あいまいにうなずかれることがあり、家に帰ってから反省しなければいけないことがある。
「粘膜や硬さの話をしてもぜんぜん伝わらなかったし、なんだか変な表情で見られちゃったなあ……。」
たしかに振り返ってみると意味深に聞こえる。しかしこっちはいたって真面目なのだ。