ずいぶん前の話だ(しかし本当は最近の話かもしれない。要は、特定されないために時期をぼかす)。ぼくはまだ若かった(しかし本当はすっかり中年だったかもしれない。要は、特定されないために年齢をぼかす)。
ぼくは臨床医からの依頼に応じて病理解剖を行った。病死した患者に対して、主治医、スタッフ、ときに患者本人や患者の遺族などが、いまいち腑に落ちないことがある場合に、病理解剖が施行されることがある。といっても、今の時代、むやみやたらに解剖なんてするものではないわけで、そこにはけっこう崇高な意志が存在している。
「いったい何がいつもと違ったのだろうか?」
この疑問こそが、病理解剖というふしぎな医療行為のモチベーションとなる。
病院において医療者が病気を診断し、病人やその家族とともにヤマイをてなづけ、治療やケアを施しながら暮らしていく過程において、大事なのは「予測ができる」ということだ。この病気が今後どうなるか、というのをある程度見通すことができたときに人は安心する。
「じきに治る」と言われたら安心するだろう。
「治らない」ならばさらに詳しい予測が必要である。「治らないけれどもかかえたまま一生暮らしていける」ならば安心するだろう。「治らないしいつか死ぬ、けれども、その死は先延ばしにすることができる」だと、不安は完全には解消しないにしても、まったくわからないのに比べたら、ある程度心の準備ができる。
そして、この「予測」がいつもいつもうまくいくとは限らないのだ。さまざまな理由で予測ははずれる。あるいは、予測がそもそもできないこともある。
思ったよりも急に具合が悪くなって死んでしまった患者。
その「予想外」がどれくらい予想から外れてしまったかによって、残された遺族、さらには、患者を担当した医療者、もっといえば、患者本人が、いかに苦しみ、悩むかが違ってくる。
そういうとき、患者が亡くなったあとに患者の肉体のまわりにただよう「無念」は非常に大きい。
その無念を飲み込むために、あるいは取り込んで呼吸して別のものに変質させるために、あるいは無念を抱えて生き残った者たちがまた先に歩いて行くために、行われる、その患者にとっての最後の医行為こそが「病理解剖」なのである。
つまりは病理解剖のウラには多くの場合、強い困惑や後悔がひそんでいる。
ずいぶん前の話だ(しかし本当は最近の話かもしれない。要は、特定されないために時期をぼかす)。ぼくはまだ若かった(しかし本当はすっかり中年だったかもしれない。要は、特定されないために年齢をぼかす)。
ぼくは臨床医からの依頼に応じて病理解剖を行った。そこには多くの疑問が潜んでおり、そのうちのいくつかをぼくは死体からピックアップして、プレパラートを用いて解消に導いた。
医療者はある程度の納得をする。
医療者から説明を受けた患者家族もある程度は納得しただろう。
しょうがなかったのだ。偶然だったのだ。理由はあったのだ。
さまざまなかたちで、腑に落ちる。病理解剖は役に立つ。
そして解剖執刀医であるぼくのもとには後悔の残滓みたいなものが少しずつ蓄積していくのである。ぼくはそれらを眺めながら、また次の病理解剖に挑むことになる。世に霊魂が存在していたら大変だったろう、後悔だけでも質量があるのに、その上なお霊魂があったとしたら地球の質量はそろそろブラックホールに匹敵する重さになっていたに違いない。
何度か書いたことがあるがぼくは病理解剖が嫌いだ。それは死と直接向き合う行為だからである。死と向き合う行為を好きだという人もいて、まあいていいに決まっているのだけれど、ぼくはそういうのが端的に言っていやだ。おまけに、たぶん、ぼくは解剖や、解剖のあとに長い時間をかけて行われる病理解剖診断書の作成がけっこう上手なのである。好きこそ物の上手なれという慣用句を作った人は、きっと、解剖のことなんて頭に浮かべていなかったのだろう。