2020年1月15日水曜日

はたらく細胞はかなり好意的な描写をしている

正月明けの仕事が一段落したところで、ふとツイッターとかnoteとかブログのアクセス具合をみてみると、年始の方が、年末よりも1,2割ほど訪れる人が多くなっていた。

たぶん年末、みんなどこかさみしかったんだろう。ネットワークからそこそこ離れたことが。

おそらくぼくらはもう、社会という大きな多細胞生物の中で小さな役割を個別に担当する細胞みたいな存在になっている。社会全体の体温にかなり依存している。一部の臓器から与えられるホルモンやとなりの細胞からパラクラインされる化学物質、間質とのイオンのやりとり、さらには遠方の脳神経から伝達されるデジタル電気信号で幾重にも調整されている。

だからそのどれかから切り離されるとすごく不安になるし、ヘタするとアポトーシスしてしまう。

年末はみんながちりぢりになった。いつもはヒトのかたちをしていた社会が、のっそりとねそべるネコみたいになった。

それが年始に再構築されて、またヒトに戻ったときに、お互い、そこにいるか、そこにいるんだな、と、いつもより多めに情報交換して、間主観性の中で輪郭をもう一度作り直そうとしているんだと思う。




そういえば赤血球という細胞がある。赤血球は酸素の運搬という仕事に特化しすぎている。ほかの細胞とは異なり、だいじなDNAを入れている核を欠いている。ほかの細胞と強い結合をすることもない。浸透圧以外での調整は基本的に細胞膜を介した少量のやりとり以外はやらない。

血管の中でずっとうろうろしている。ときに血管の曲がり角で休んでいるときもあるけれど。

そして人間の体の中ではもっとも寿命が短い。

社会の中でも赤血球になることはできる。しかしそのことを想像すると少々へこむ。そういえば赤血球も真ん中ががっくりと落ちくぼんでいる。すきまをすり抜けるためだ、と言いながら。