『それでも町は廻っている』というマンガには高校生たちが出てくる。彼女らが修学旅行に行く回がある。何度か読んでいるうちに、まったく不思議なことなのだけれど、ぼくは自分の修学旅行の記憶を思い出せなくなって、修学旅行といえば歩鳥たちが北海道にやってきてアイヌ民俗資料館に行ったりジンギスカンを食べたりした風景を思い出してしまうようになった。
ぼくは北海道の人間だから、そもそも高校の修学旅行先は京都だ。しかし、京都での記憶が一切ない。北海道旅行の記憶になってしまった。それは「記憶」ではないのだけれど。過去とか記憶というのは遡って定義するものなのだろう。正しい過去とか正しい記憶というのは存在しない。まるで仮説なのだ。よりそれっぽいものがある、というだけ。より妥当だろうと思うものがある、というだけ。
『H2』というマンガで国見比呂の母親だったろうか、誰かはもう忘れてしまったが、誰かが鼻歌を歌うシーンがあって、「あらこんなところに牛肉が」と書いてある。
これは知っている人ならすぐわかるだろうけれどCMのフレーズだ。たまねぎたまねぎあったわね、ハッシュドビーフ、デミグラスソースが決め手なの、と続く。
しかし問題はCMのほうではない。
たとえば静かな喫茶店や地下鉄の車内など、複数の人がいて本来ならあまり余計な話し声などは聞こえないはずの場所で、遠くから鼻歌が聞こえてくるようなことがあったとき、あとでそのシーンを思い出すと、実際に流れていた鼻歌が何であっても、その歌詞が「あらこんなところに牛肉が」に置き換わってしまうのである。曲も歌詞も違うのに。マンガで読んだ視覚的記憶が、聴覚的記憶を乗っ取ってしまうのだ。
たとえば、仕事でほかの病院や大学を訪れ、そこを辞するときに、日が暮れているとする。帰り道に、建物と建物のすきまにある狭い小道を歩くことがある。すると、見えていない月が頭上に見え、存在しないベンチがそこに見え、そこに少年が座って泣いているのが見える。ぼくは思わず数歩下がって、自動販売機のそばに体を隠す。もちろん自動販売機も存在しないのだがぼくの精神はそういうことになる。
もはや、過去の記憶ではなく、現在進行形の体験が、マンガによって書き換えられている。
元となったマンガは書かない。思い付いたとしてもリプライなど送ってこないでほしい。こういうのはナイショのままのほうがいいのだ。